9.志穂の視線
部活の朝練を終えて教室に戻る前、トイレで鏡を見ると右の髪が跳ねていた。
ヤダ。
濡れた手で髪を引っ張ってみるけど、直らない。仕方ない。
「汗かいたしね」
はあぁと、小さくため息を吐く。
中等部の頃は、そんなことろくに気にしていなかった。いつからだろう、身だしなみとか、そんなことを考えるようになったのは。
「志穂」
「キャッ!」
思いもかけない方角から名前を呼ばれ、思わず飛び退く。
声のした方を見ると、目を丸くした叶太くんがいた。
陽菜の彼氏。最近、なんかケンカしてるらしいけど。
「キャッ、って。そんな驚くとこか?」
「驚くって言うか、……女子トイレ前で、男子に声かけられたら、普通、驚かない?」
「え?」
叶太くんは、キョロキョロと辺りを見回す。
「いや。むしろ、男子トイレ前?」
「ああ。……あはは」
真顔での反論に、思わず笑顔になる。
「確かに」
トイレを出て進行方向、つまり教室方向には男子トイレがあった。
「で、こんなところで待ち伏せして、何の用?」
そう。このタイミングでの声かけ。用事なしで、朝のあいさつとも思えない。大体、おはようの一言もないし。
「……あの、さあ」
言いにくそうな、叶太くん。
聞いてはみたけど要件は明らか。だから、助け船を出すことにした。
「って、聞くまでもなく、決まってるか」
陽菜がわたしのところでお弁当を食べるようになって、もう一ヶ月近い。
叶太くんがそれを良しとしていないのは、見ていてよく分かる。
大体、この時間。八時二十分。普通なら、陽菜を迎えに行って席で陽菜とおしゃべりしてる時間。わたしは朝練があるから普段は見かけないけど、休み時間の様子を見ていれば想像がつく。
「陽菜のことでしょ?」
「あ、うん」
陽菜とは初等部からのつきあい。
いつもニコニコ笑ってる、優しい子。ふわふわの長い髪はちょっと茶色っぽくて、とにかく、抜けるように色が白くて、折れそうなくらいに華奢で、目が大きくて、とても可愛い顔をしている。まさに、守ってあげたいお姫さまナンバー1みたいな女の子。
陽菜の王子さまに立候補したい男子は、多分、山ほどいる。だけど、既に叶太くんがいるから、誰も名乗りを上げられないでいる。
その叶太くんが真顔で言った。
「最近、ハルが変なんだ」
「歩きながら、話そうか」
「あ、うん」
とにかく、ひたすら歯切れの悪い叶太くん。だけど、わたしはサッサと歩き出す。こんなところで、のんびりしてたら予鈴が鳴ってしまう。
「……オレ、なんかやらかしたかな?」
叶太くんは小声でつぶやいた。
「ん?」
「あの、さ。つまり……」
「あ、大丈夫。聞きたいことはわかるよ」
叶太くんが、わたしに意味が通じなかったと思ったのか、言葉を選び直そうとするのを慌てて止めた。
「って言うか、なんでこうなったか、分かんないの?」
そう言うと、叶太くんは、傷ついたという顔をした。なんて、分かりやすい人。思わず笑ってしまう。
「……笑うなよな。オレ、マジに困ってんだからさ」
「ちがう、ちがう。そこで笑ったんじゃないって」
早足で歩いたこともあり、結局、何も聞けない内に教室に着いてしまった。さすがに、教室に入ったら話していい内容じゃない。
叶太くんが教室の前でふうっとため息を吐いた。
「うーん。じゃ、続きは放課後にしよっか?」
「え? 志穂、部活は?」
わたしはバスケ部所属。初等部のクラブ、中等部一年の途中まで、叶太くんも同じくバスケ部だった。だから、わたしたちは結構仲が良い。
「始まる前か終わった後、で、よければ」
「わかった! 終わるの待ってる!」
お昼休み。
この一ヶ月ほどで、すっかり、陽菜も入れた四人で食べるのが、日常になっていた。
一番、おしゃべりなのは、亜矢。陽菜と叶太くんのことを聞きたがるのは、梨乃。
陽菜は、自分から話題を振るようなことは、ほとんどなくて、いつもニコニコ、相づちを打つようなタイプ。
それでも、叶太くんのことを聞かれると、一瞬、表情が曇るのが気になっていた。しかも、一緒にお弁当を食べるようになってから、どんどん、陽菜の食が細くなっている気がする。
あれ、なんか、痩せた? そう感じたのは、二週間くらい前。
それでも、最初は気のせいだと思っていた。元々、細い子だから。でも気をつけて見ていると、分かることもある。
例えば、陽菜はわたしが三口食べる間に、一口しか食べない。しかも、一口当たりの量がわたしの半分!! そして、お弁当のおかずかフルーツをほんの数口食べただけで、そっとフタを閉じる。ゆっくり食べるから、食べ終わりはわたしたちよりほんの少し早い程度。
(って言うか、完食じゃないし、食べ終わってるって言わないかな?)
陽菜のお弁当は、小さいけどとても凝っているから、亜矢や梨乃が、
「うわあ! 美味しそう!」
なんて言った日には、すかさず、
「じゃあ、よかったら食べて?」
と、満面の笑顔で差し出している。
正直、気になっていた。コレは絶対、叶太くんがらみで悩んでいるな、と思っていたから。友だちだし力になれるなら……と思ってた。だけど、一体、わたしに何ができるんだろう?
そう思っていたところに、叶太くんからの相談。
渡りに船!! 思わず、ほくそ笑んだ。……けど、結局のところ、わたしにだって何がどうなっているかなんて、分からないんだ。
そして、今日も陽菜はニコニコしながら、ほとんどお弁当には手を付けない。
聞いてみようか? だけど、一体なんて? 思い悩んでいたら、
「……たの?」
と、目の前に大きな黒い目!!
「ぅっ、わっ!!」
「あ、ごめんね」
陽菜だった。
び、びっくりしたぁ!! 心臓がバクバク言ってる。そんなわたしを見て、梨乃が笑う。
「なに考えてたの?」
「珍しいね、志穂がご飯中に考えごとなんて」
亜矢も笑う。陽菜だけが、申し訳なさそうな顔でわたしを見る。
「驚かせちゃった? ごめんね」
「いい、いい」
まさか、ここで陽菜と叶太くんのことを考えてた、なんて言えないよね。でも……、これくらいなら。
「ねえ、陽菜」
「ん? なあに?」
「痩せた?」
と、陽菜の腕を取る。
「え?」
わたしの突然の行動に、梨乃と亜矢も一気に注目。
「最近、あんまり食欲ないみたいだし」
陽菜が大きな目を何度も瞬かせた。
「なにか、悩みごとでもある?」
思わず言ってから、しまった!! と後悔した。陽菜の表情が一気に曇ったから。曇ったと言うか、今にも泣き出しそうで……。
こんなところで、言うんじゃなかった!! せめて二人きりのときにするんだった。
だけど、梨乃も亜矢も悪い子じゃない。
一度、口にしてしまったことは、なかったことにはできない。だから、
「あー。えーっと。わたしで良かったら、いつでも話聞くし」
と、言うしかなかった。ちょうど隣に座っていたから、陽菜の肩をそっと抱き寄せて、
「話すだけでも、楽になること、あるよ?」
と、陽菜の耳元でささやいた。それを見て、
「ひゅーひゅー。志穂ちゃんってば、男前~!」
梨乃が明るくからかう。一瞬さした影を払うように。
「わたしも、いつでも聞くよん」
亜矢もほおづえを付いて、にっこりと陽菜に笑いかけた。
陽菜は、驚いたように、
「ありがとう」
と言った。
今はこれでいい。また改めて話をしよう。今度は二人きりのときに。
放課後の体育館。
「こら! 真衣! よそ見しない!」
先輩の怒声が響き渡る。
田尻真衣が慌てて、
「すみません!」
と頭を下げた。
練習の合間に、同じくバスケ部の真衣が何かを気にするようにチラチラ見ていたのには、気づいていた。
それが一体何なのか、気になって見るとそこには彼方くんがいた。
わたしに気が付くと、笑ってヒラヒラ手を振ってくる。
……あれか。目立たないよう、視線だけ合わせて笑顔を見せた。
真衣は叶太くんが好きだ。
陽菜がいるから、できるだけ顔に出さないように、態度に出さないようにと努力しているらしい。だけど、長く一緒にいれば見えてしまうモノもある。直接、本人から聞いたことはないけど、分かってしまった。
でも、もちろん、叶太くんは真衣の気持ちになど気づきもしない。陽菜に夢中で他の女の子の方なんて、見ようと思ったこともないと思う。
部活が終わるまで、叶太くんは体育館の隅で練習を見ていた。
練習が終わり先輩たちが先に行くと、真衣は小走りに彼方くんの元へと向かった。
……行きにくいなぁ。
これから、陽菜のことを話すことになっている。
ちゃんと、待ち合わせ場所、決めておけば良かった。終わったら電話しようと思っていたから、何も言わずに部活の後とだけ約束したんだ。
「叶太くん、やっぱり、バスケ部、入ることにしたの?」
真衣の弾んだ声を耳にし、更に気の重さが募る。
「んな訳、ないじゃん」
叶太くんは、カラカラっと笑い飛ばす。なのに、真衣は食い下がった。
「なんで? まだ、六月だし、ぜんぜん大丈夫だよ!」
「いや、バスケは好きだけど部活はやらねーって」
と、笑い飛ばした後、叶太くん、わたしに気づいて手を振った。
「おう! 志穂! 待ってたぞ」
あー。やられた。
わたしは頭を抱えた。コッソリ別のドアから出て、着替えた後で電話できたらと思ったけど。
まあ、ガッツリ、一時間以上、わたしを待ってたんだし、見過ごす訳ないか。
にしても、もう少し気を使ってよね。鈍感もここまで来たら罪だわ。ほら、あの真衣の顔。
もう。わたしは、表情は変えないまま、思わず心の中で独り言をつぶやきまくり、こっそり悪態をついた。
「着替えてくるから、待ってて」
「ああ! 悪いな」
叶太くんの笑顔がキラキラ輝いている。わたしが何を知っているというわけじゃないのに。陽菜のこと、何かわかると思って期待しているんだよね。
真衣の表情が、叶太くんの隣で険しくなる。
誤解だよ。そう言いたかったけど、もちろん言えない。
陽菜という彼女がいるのは学校中の知るところだし、わたしが言い訳するようなことでもないのだから。なのに、……。
「なんで、志穂が叶太くんと待ち合わせしてるわけ!?」
更衣室で、真衣が眉間にしわを寄せた険しい表情で聞いてくるものだから、面食らった。
「……は?」
そんなのわたしの勝手でしょ、とか思う前に、何を言われたのかと驚いた。
「なんで、叶太くんが志穂のこと見に来るの!?」
……まさか陽菜って人がいながら、って言いたいわけじゃないよね? 一瞬、そんなことを思ってみたりもした。
だけど、どう見てもそんな風には見えない。
そう。これは嫉妬。……でも、嫉妬? 彼女がいる人だよ?
学校1の有名カップルで、しかも、どちらも小学生の頃から知ってるのに……。真衣は幼稚園も杜蔵だから、もしかしたら、その頃から知っているはず。
「なにか言いなさいよ!」
妙に強気の態度。真衣ってこんなキャラだっけ? 叶太くんを好きなのは知っていた。ってか、感じてた。
でも、そのことを話したことすらないのに。なんでこんな強気なの、この子!?
「えっと、……なにかって、陽菜のことで相談にのって欲しいって、言われただけなんだけど」
別に後ろめたいこともないし、そのまんま事実を言った。
「真衣はクラス違うから知らないだろうけど、わたし、今、陽菜とお昼食べてるし」
でも、途中から、真衣はわたしの言葉なんて聞いてなかった。
真衣は明らかに虚を突かれたような顔をしていた。え、なんで、って顔。
……なんでって、そう聞きたいのはこっちだよ。とは、やっぱり言えない。
ったく、もう。やっぱ、この子苦手だわ。団体競技だし、同じ学年だし、表面仲良くしてるけど。
真衣が呆然としている間に、わたしはパパッと着替えてしまう。
時間はどんどん遅くなる。散々待たせておいて、話す時間はありませんでした、じゃ、あまりに申し訳ない。
「じゃ、ね。また明日」
真衣の肩をポンと叩いて、わたしは一足先に更衣室を飛び出した。更衣室を出て、ホッと息を吐いてから思った。
ところで、あの強気は一体何だったんだろう……って。