プロローグ:そして彼らは旅立っていなかった
大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
本日より、第三章連載再開いたします。
トラブルがなければ、切りのいいところまで毎日更新できる予定です。
玉座に、老人が座っていた。
顔は皺だらけで、目は落ち窪み、唇もひび割れている。肘掛けに置かれた手は、節くれ立って枯れ木と見分けがつかない。
伸び放題の白髪はぼさぼさで、法衣に隠された足は立ち上がったらぽっきりと折れてしまいそうだ。
老人というよりは、人間の残滓。精気を失った――あるいは、奪われた――成れの果て。玉座の立派さと相まって、憐憫よりも滑稽さを感じさせる。
しかし、それはすべて表面的な印象にすぎない。
つぶさに観察すれば、その異常さに気づくはずだ。
首筋に、手首に、太股に、玉座から伸びた細い銀色の管が接続されていることに。
聖職者のようなローブの向こうからは、歯車が回るような規則正しい機械音が響いていることに。
そして、落ち窪んだ瞳は爛々と輝き、不吉な光をはなっていることに。
滑稽さは消え、不気味さが実際に冷気さえ伴って辺り一帯に充満する。
その体に、赤い刃が突き立てられた。
巨大な。それこそ、幅だけで老人の身長もあるほど巨大で真っ赤な刃だ。
人形師ヨハンの最期。
それが、崩壊の始まりとなった。
そう、なにも終わってはいない。始まったのだ。今、ここから。
ストーカー男に刺され死亡した俺は、異世界で『究極の人形』に転生し、妹と再会した。
……この段階でかなりツッコミ待ちなんだが、さらに転生先が空を飛ぶ巨大なクジラの内部がダンジョンで、そこをなんとか脱出したものの、今度はエルフの剣士――ファイナさんとの修行の日々が始まった。
辛く、辛い剣の修行。
今は少し冷静になっているが、当時は、すっかり染まっていた。
なにに染まっていたかって?
エルフの戦闘民族っぷりにだよ!
痛くなければ憶えないを地でいく修行は、単なる歴史好き大学生だった俺を一角の修羅に変えた。ほんと、冷静に馬鹿でかいモンスターを狩れるようになるなんてな……。
その修行のついでに、師であるファイナさんを長年蝕んでいた妖刀・奏血尽羅を吸収。
ようやく。
異世界といってもダンジョンと森の中にしかいけなかった俺が、ようやく旅立つときが来た!
――そのはずだった。
なのに、俺たちの旅は、まだ始まってもいなかった。
……おかしいね? 挨拶をしたら、すぐに旅立つ予定だったのにね?
奏血刃羅――今では、ただの刃羅だ――を吸収してから、すでに10日。
旅立つ前に立ち寄ったエルフの里で、俺たちは足止めされていた。
いや、里のエルフたちに、足止めという認識はないに違いない。一族の宿痾を取り払い、偉大なる英雄を救った恩人を歓待している。
そう思っているはずだ。
それは、クルファントさんが住む領主の館――らしき建物――の客間で上げ膳据え膳。下にも置かぬもてなしをしてくれていることからも明らか。
俺たちが旅に出る話はしている。もちろん、している。しかし、相手はエルフである。戦闘民族である。ファイナさんの同胞である。
都合の悪いことは聞き流すスキルを所持しているのではないか。そんな疑念はぬぐえない。
いい人たちなんだけど、思いこみが激しいというか……。なんだろう。田舎のおばあちゃんの家から帰るに帰れないというか、そんな状況。
そんなわけで、俺はエルフの里で足止めされ、家の中で置物のようになっていた。
人形だけにな!
「……兄さん、自虐的なことを考えていますね?」
「自虐じゃなくて、人形ジョークだよ」
「シニカルなのも良いですが、兄さんには私を照らす太陽なのですから、もっと自分に自信を持っていただかないと」
甲斐甲斐しく俺の世話を焼くため、夕食後も俺の側から離れない妹――莉桜が諭すように言った。
大げさな。
とも思うのだが、この人形の体――今は、特技で外見をごまかしているけれど――を作ったのが莉桜だという事実を加味すると話は違ってくる。
俺が死なずに済んだ……いや、死んではいるのか。死んでも活動していられるのは、莉桜のおかげ。
それなのに、この体――腕が伸びたり、分離したり、あまつさえ強力で危険な『星沙心機』が埋まっているけれど――を否定するような態度は大人としてありえない。
「というわけで、結婚しましょう」
「うちの妹は、隙あらばぶっこんでくるなぁ」
けれど、それとこれとは話が別だ。
「じゃあ、兄さん。途中経過を説明したら、結婚してくれるっていうんですか!?」
「今の段階じゃ、難しいな……」
容姿はなんの問題もない。
腰まで伸びる黒髪は妖しいまでに美しく、まったく引っかかることのない手触りはまさに黒絹。
病的なまでに白くなめらか肌と相まって、見る者を興奮ではなく陶然とさせる美しさを醸し出している。
完成した少女。
未だ熟さぬ、美女。
今は、里のエルフに借りたか仕立ててもらったかした浴衣にも似た着物を身にまとっている。牡丹柄――俺が知る牡丹と同種かは分からないけど――の着物は華やかで、よく似合っていた。
というか、莉桜は洋服より着物のほうがいいのではないか。あまり見慣れない新鮮さもあるかもしれないが、長い黒髪にお淑やかな外見。それに、スレンダーな体型は和服にうってつけ。
和服美人という言葉は、異世界だけど、莉桜のためにあるのではないか。
そんな美少女に対してだろうと、俺の態度も対応も変わらない。
「莉桜のことは大切だけど、結婚となるとな」
なぜ、恋人とか婚約とか、そういう段階をすっ飛ばそうとするのか。正直、実の兄妹という壁を飛び越えるのもやぶさかじゃないんだが……。
若干、引く。
いや、若干というのは兄である俺だからの感想だろう。他人だったらドン引きしている。
「その兄さんのマジノ線を抜くため、奇襲効果を期待して省いているとしたらどうです?」
「奇襲奇襲って、夏侯淵かよ」
最期は逆に奇襲を受けて死ぬんだからな、夏侯淵。
あと、俺のマジノ線って役立たずみたいに聞こえるから止めてください。
「でも、承諾してもらえるまで諦めずにプロポーズし続ければ、達成率100%ですよ? これって、つまり運命なのでは?」
「ああ、うん。俺は思想と信条の自由は尊重するタイプだよ」
達成率は100%かもしれないけど、成功率はどうなるんだよ、それ。
なんだか彼岸へ行ってしまった妹から目を背けると、部屋の隅で文字通り侍っているファイナさんと目が合った。
すっと背筋が伸びた正座姿は、はっと息を飲むほど美しい。凛としたという表現の生きた見本だ。
白い着物と紫色の帯。そして、袖が大きくなった服は、エルフの伝統的な衣装でもある。日本人からすると改造和服にしか見えないが、魅力的であることは間違いない。
しかし、ポニーテールにした金色の髪から覗く笹穂耳はひくひくと動き、きりりとして引き締まった印象を裏切っている。
というか、すっと体をこちらに向けたファイナさんは、思いっきり笑っていた。
「相変わらず、二人の話は面白いでござるな」
「漫才しているつもりはないんですけど?」
「作ったものではなく自然と面白くなるのであれば、それもひとつの才能……否、絆でござろうな」
ほめてるんだか揶揄してるんだかよく分からなかったが、ふと、ファイナさんが真剣な表情になる。
「時に、お屋形様」
「……ファイナさん」
反応が遅れたのは、わざとじゃない。含むところも、今ではあまりない。
ただ、こう、絶望的に慣れない。
師から、主人と呼ばわりされるのは違和感しかなかった。
しかも、容姿だけなら、とんでもない美人だからなぁ。
「兄さん?」
横から発せられた声に、不審なところはなにもない。妹の表情にも、
ただ……なんて言えばいいんだろう?
無言の圧力が俺を襲う。
まるで、心の中で、ファイナさんを美人と褒め称えたことをとがめるかのように。
いや、実際に分かっている節がある。
それでいて自分が褒められているときには気づかないんだからな。鋭いんだか鈍いんだか。
「それで、お屋形様。話のほうでござるがな」
「ああ……。良い話ですか? 悪い話ですか?」
「それは定義次第でござるかなぁ。少なくとも、悪意があってのことではござらんよ」
えー。そういうのが、一番性質が悪い気がするんだけどなぁ。
「それは、とても性質の悪そうな話ですね」
莉桜は、ストレートに口に出して警戒した。
そんな俺たちを困ったように――あるいは、楽しそうに――眺めつつ、ファイナさんがおもむろに口を開く。
「里の者らの動向でござるが。どうやら、我らの新居を建てようと縄張りを始めるつもりのようでござるよ」
「新居……?」
「我ら……?」
俺と莉桜が、ファイナさんからの情報に顔をしかめた。でも、気にしている部分が微妙に違っているような? いや、気のせいだ。気のせいに違いない。
「すっかり、お屋形様が拙者に婿入りする流れになってござるな」
はっはっはと、大物っぽくファイナさんは笑った。
豪快で、実にカリスマ性のある態度。男の俺から見てもかっこいいんだけど……今はそんな場合じゃあない。
「クルファントさん、なにやってくれてんの……」
「いやいや、むしろクルファント坊は良く食い止めていた方でござるよ」
「そうなんですか……っていうか、ファイナさんが止めてくれたら良かったのでは?」
「流れに逆らう剣など見苦しいものでござるよ」
「愉快犯、愉快犯の所行だ」
俺だけじゃなく、莉桜の反応まで楽しんでいる疑いが確信に変わった瞬間だった。あえて地雷原を歩くかのような行動。火縄銃が伝来したら、肝練りが流行りそうだ。
……などと、来るべき未来に想いを馳せている場合じゃない。
「私と兄さんの新居ならまだしも、我らのですか」
隣にいる妹がヤバいんです。
でも、やっぱりなー。そうなったかーという思いもあった。
ちょっと農作業を手伝ったときにも、里のエルフたちが、なんかこっちに言いたそうというか聞きたそうな雰囲気あったもんなぁ。
あえてスルーしたんだけど。
「ファイナさんが、俺のことをお屋形様とか呼ぶから……」
「身も心も捧げると言うたではござらぬか」
そう言って、さりげなく着物の胸元に指を入れ、少しだけはだけさす。
褐色の肌が見え、さらにその奥まで――って、それ以上イケナイ。
しまって、しまって!
「むう。つまらぬ反応でござるな」
こっちは命がけなんだよぅ!
すぐ近くにいる妹の顔を見ることができない。こんな不幸があるだろうか? いや、ない。
出よう。すぐに出よう。ゆっくりしすぎた。
このままじゃ、里の人たち以上にファイナさんが危険だ。そして、莉桜が臨界点を突破しそうだ。
「それでは、拙者に策があるでござるよ」
「……信じていいんですね」
「信じてくだされ」
居住まいを正しながら断言するファイナさん。
正直、疑念がないではなかった。
なかったが、今の俺には師と仰いだ人を信じることしかできないのも、また確かだった。




