09.そして、彼と森の妖精は森へ向かう(後)
トラックが意思を持って襲いかかってくる。
およそあり得ない想定だが、レイヴベアの血臭に惹かれてやって来た魔物と対峙している今の状況はそんなところかもしれなかった。
大きく前へ伸びた二本の角。
口から飛び出た巨大な牙。
ギョロリとした、濁った瞳。
全身を覆う茶色く長い毛。
見るからに硬そうな筋肉に覆われており、巨体を支える骨も鉄柱と遜色ないに違いない。
こんなのが、森のどこに隠れていたのかとあきれるほどの大きさ。
それでいて、周囲の木をなぎ倒したりはしていない。見かけによらず俊敏で繊細なのか。それとも、他に特殊な能力があるのか。
とにかく、人の身で。それも、たった一人で対抗しようなど無謀としか思えない魔物。
かといって、彼我の距離が数メートルしか離れていない状況では逃亡も絶望的。
それが息荒く、俺を見下ろしていた。
だが、いきなり襲いかかったりはしない。
本来の目当てだっただろうレイヴベアには目もくれず、俺から慎重に距離を取って観察――値踏みをしている。
それも当然だろう。
相手のことをああだこうだと言っては見たものの、俺だって相当に異質。
人形が刀を持って襲いかかってくるというのも、かなりあり得ないシチュエーションだ。まったく、カカシからマネキンになっても、ホラー映画とは縁が切れないらしい。
それに、一番異質な人が俺の後ろに控えているのだから。
「スクローファ・シヌム。ここら一帯の主……といったところでござるかな」
相手が森の――一部の――主だろうと、〝剣匠〟に敵うはずがない。
だから、主も手をこまねいている。
そう思っていた時期が、俺にもあった。
「……なにをしていらっしゃるんでしょうか?」
首を動かし、ちらりと様子をうかがうと、そこには地面にどかりと腰を下ろしたファイナさんの姿が。
あまりにも予想外すぎて――あるいは、似合いすぎて――服が汚れるのになんてことをと、余計な心配をしてしまう。
今ほど、首の可動域が広くなって悔やんだことはなかった。
しかも、竹の皮で包んだおにぎりを取り出し、完全に観戦モード。それも、スタジアムでのスポーツ観戦ではなく、運動会の応援といったほうが実情に近い。
「一太刀」
「……はい?」
「攻撃を許すのは、一度だけでござる」
それが当然だからと、俺が相手をしろと指示さえ下さない。
それなのに、きっちりハンデまでつけられた。
「分かり……ました」
だが、どれほど理不尽だろうと、俺に否やはない。
ファイナさんは、できないことは決して言わない。
だから、一太刀で充分と言うのなら、実際にそうなのだ。
「……なら、殺ることはひとつだ」
つぶやきながら、サイとイノシシが合わさったような魔物――スクローファ・シヌムに向き直る。
観戦モードに入ってしまったファイナさんは、無視して構わないと判断したのだろう。スクローファ・シヌムが俺を標的に定める。
やはり、魔物は俺の『星紗心機』を本能的に狙っているのか、隙なくこちらを窺っている。今頃、心ちゃんが「ほんに、嫌やわぁ」と、ころころ笑っているところだろう。
「…………」
「…………」
無言の対峙。
しかしそれは、破られる前提の沈黙でもあった。
先手を取ったのは、スクローファ・シヌム。その場で前肢を上げて上体を起こすと、双角の間に電流が走る。
この図体で、俺の【先制】より上。しかも、遠隔攻撃まで備えているのか。さすがは、ここら一帯の主だ。
「グモオオオオッッッォッッ」
それはスクローファ・シヌムの叫びか、それとも電撃が大気を斬り裂く音だったのか。そんな疑問は置き去りにして、槍……いや、角のように鋭い形状をした電撃が俺へと迫る。
「よっと」
だが、焦る必要はなにもない。
ファイナさんの回避不能の攻撃に比べれば、対応できるだけ優しいというもの。
それに、とってもゆっくりだ。
電撃が人形の体に触れる寸前、球体関節を曲げてするりと避ける。【回避】99は伊達じゃあない。
電撃は真っ直ぐ飛び、盛大に自然を破壊した。
だが、言うまでもないが、それで終わりではない。一帯の主は少し下がったかと思うと、次の瞬間、猛烈な勢いで突進してきた。
トラックが殺意を持って向かっているかのような圧迫感。恐怖感。
そして、絶望感。
けれど、俺は慌てない。すっかり馴染んだ刀を軽く握り、スクローファ・シヌムの突撃を待ち受ける。
当たれば俺の体でも穴を開けそうな角。
やはり、俺の体を容易く貫くだろう牙。
それを避けても、あの太い足のどれかに踏みつけられたら、それで終わり。いや、突進に擦っただけで体がバラバラになるかもしれない。
なにより、地獄から響いてくるかのような声が恐ろしい。
なのに、やっぱり俺は冷静だった。
角で突き刺すため前傾姿勢で、狂ったように、しかし、的確に俺へと迫るスクローファ・シヌム。改めて言うが、凄まじい迫力とスピード。
でも、不思議だ。
まったく死ぬ気がしない。
無謀? 命知らず? 麻痺してるだけ?
どれも違う。
本当に、なにも感じないのだ。
なぜって?
どう考えたって、ファイナさんのほうが怖いに決まってんだろ!
それを思えば、この程度どうということはない。
それを証明するかのように、目前まで迫っていた二本の角が触れる寸前、俺は体を沈めて紙一重でかわした。
完全に無意識の動作。
それは、攻撃に連結した動きだったからだろう。防御や回避は、ただ命を守るだけじゃない。命を狩るための動作でもあるのだ。
二本の角をかいくぐり、向かってくるスクローファ・シヌムの頭の下に潜り込んだ。相手は、その突進力が徒となって、対応できない。
この辺りかな?
「――斬るぞッ」
確証はないが確信とともに、前傾姿勢のまま頭上へ刀を振り切った。
刃が毛皮を斬り裂き、肉に達し――反発を感じたのはそこまで。その先は、するりとなんの抵抗もなく刃が入っていった。
――最後まで。
ずるりと頭がずれ、まるで俺から離れるかのように、反対側へ落ちる。
血が勢いよく噴き出し、濃厚な血臭が周囲に満ちた。
これが、ファイナさんとの修行の成果だ。
技だけで斬っているわけじゃない。
俺の常識が通じない異世界だからって、技術だけで怪物の首を落とせるほど非常識じゃない。
規格外の【筋力】と組み合わさって成し遂げられたジャイアントキリング。
「……ふっ」
軽く息を吐く。いや、呼気などないが、感覚的にそうしたという話。現象としてはなにも起こらなかったはずだが、不思議と落ち着いた。
一帯の主スクローファ・シヌムは頭を切り離され、それでも、胴体はもがき前へ進もうとしている。
まるで死んだことを理解していないかのよう。小さな頃に読んだ恐竜図鑑を思い出す。恐竜はあまりに巨大すぎて、実際に死んでから脳が死を認識するまで時間がかかったとか。
そんな記憶をもてあそんでいると、ようやく胴体が頭とは反対の方向にどうと倒れた。鈍い音と震動が地面を通して伝わり、風が舞い上がってさらに血臭を拡散させる。
死んだ後に自爆……なんてこともないようだ。援軍――次の敵が出てくるなんてことも。
終わった。
勝った。
死んだ。
殺した。
ファイナさんからの課題をクリアした。
そのとき、スクローファ・シヌムの体内から光が放たれ『星紗心機』へ吸収された。胸の魔石が黒く染まり、【MP】が一気に10点回復する。
……大物、だったんだな。
「お見事!」
手放しの賞賛を受け、俺はようやく緊張を解く。
振り返ると、指先を舐めながら近づいてくるファイナさんがいた。この惨状にも顔色ひとつ変えない。
それは異常かもしれないが、救いでもあった。
木漏れ日を受けて輝く金色の髪と、目を引く褐色の肌。それに、ポニーテールにした金色の髪から覗く笹の葉のような耳。
毎日俺を叩きのめしているとは思えない、美しい手足。引き締まっているにもかかわらず柔らかそうで、女性的なプロポーション。
ファイナさんは変わらない。
変わらず、そこにいる。
非日常に叩き込んだのが彼女なら、日常に戻ったきっかけも彼女。
まあ、ここに莉桜がいたら、その限りじゃないだろうけど。
「なにやら、ぼうっとしているでござるな」
「いや、ダンジョンじゃないと、死体、消えないんだなっと思って」
それは完全に言い訳だったが、ファイナさんは乗ってくれた。
ふたつに分かれた魔物を眺めやり、それから俺へと視線を移動させる。
「ああ、そうなるでござるな。マサキ殿の経験は特異ゆえ、こちらの虚を突かれるでござるよ」
「こいつ、このままで良いんでしょうか?」
レイヴベアの血臭に惹かれてやって来たスクローファ・シヌム。なら、スクローファ・シヌムを求めて他の魔物が集まっても不思議じゃない。
そうでなくても、この大きさだ。自然に任せていたら、朽ち果てるまでどれだけ時間がかかることか。その間に病気の温床にでもなったら目も当たられない。
「ふむふむ。確かに、なかなか食い出がありそうでござるな」
「……え?」
食べるの?
いやまあ、食えないことはないんだろうけど……。
食べるの?
「これを三人では、ちょっと無理なんじゃないでしょうか?」
暗に、できるなら避けたいとファイナさんに伝えた。
俺は情報を食ってるそうだから大丈夫なんだろうが、莉桜にはちょっと食べさせたくない。
「ははははは。マサキ殿、それはさすがにないでござるよ」
「そうですよね」
「もちろん、拙者たちは良いところだけもらうに決まっているでござる」
あー。伝わんなかったかー。
「じゃあ、必要な部分だけ切り取りますか?」
「いやいや。残りは、里へお裾分けとしたいでござるが、如何に?」
「そりゃ、構わないですけど……」
この巨体をどうするつもりなんだ? ここで捌くのか? ジビエなのか?
そう呆然としている間に、ファイナさんがスクローファ・シヌムの足に縄をかける。かなり、手慣れている感じ。
そこまでは、まだ良かった。
「マサキ殿、少し下がっているでござるよ」
そう言って、ファイナさんが刀の柄に手をかけた。
なにが起こるか分からない。
俺は、大慌てで飛び退いた。しかも、ただのジャンプじゃない。カカシ時代を彷彿とさせる両足を揃えてのジャンプだ。よっぽど焦っていたらしい。
しかし、ファイナさんはそんな俺には目もくれない。
集中し、一息に刀を振り抜いた。
「《氷華絶嵐》」
またしても、刃は抜かない。
鞘のまま一閃。
それは、抜く必要がないということ。
鞘の先から白く視覚化した冷気が発生し、森の中を逆巻いた。
いや、それはただの副作用に過ぎない。
「すげぇ……」
あまりの現象に、語彙が吹き飛ぶ。
そりゃそうだ。
巨大な主の死体が一瞬で氷漬けになったら、誰だってそうなる。
「意識のある相手には効きづらいでござるが、効果は見て通りでござるよ」
「氷漬けって……マンモスか」
もちろん現物を見たことなどないが、あっさりと氷で覆われてしまった一帯の主は永久凍土から出土したマンモスを彷彿とさせるに充分だった。
というか、これも紅龍蒼牙の技なの?
そんな俺の戸惑いなど知らぬげに、ファイナさんは満足そうにうなずいた。
「マサキ殿には大きいほうを任せるでござるよ」
「そりゃまあ……」
【筋力】だけは比べるべくもないし、女性に重たいものを持たせるなんて後で莉桜になんと言われるか分からない。
だから、それはいい。
でも、大きいほうって?
呆然としていた俺は、見逃していた。
切り落とした頭部にもロープが巻かれていたことを。
「頭とて、捨てていく手はあるまい。脳みそと目玉も珍味でござるからな」
「あの莉桜には勘弁してください。繊細な娘なんです」
そう哀願しつつ、俺は胴体のほうのロープを引っ張る。
手は抜かないが――ばれるから――胴体だけで何トンとあるだろう。そこに氷の重さも加わるのだ。どうせ運べるはずがない。
「……あ、動いた」
あに図らんや。軽い地響きを立てて、スクローファ・シヌム(胴体)が動き始めたじゃないか。もちろん、ほぼ全力で動かしているが、どれだけ力を入れても個人で動かせるもんじゃないよな?
自分が規格外。いや、人外だと本当の意味で理解したのは、今、この瞬間かもしれない。
「ほうほう。やるでござるな」
それに気を取られ、スクローファ・シヌム(頭)を同じように運べるファイナさんも充分過ぎるほど規格外ということに気づけない。
加えて、これから向かうエルフの里がどんな場所なのか。考えを巡らす余裕もなかった。




