02.そして、彼は脅威に立ち向かう
そっかー。
カカシ。
カカシかぁ。
じっと見ても。天井に目をそらしてから、もう一度下を見ても。水面に映る己の姿は変わらない。
紛れもなく、カカシだった。
まあ、あれだ。
顔が「へのへのもへじ」になってないだけ、まだ良いんじゃないかな。それに、よく見れば愛嬌もある。ゆるキャラとして売り出せば、ビッグビジネスの予感もする。
着ている服も、農民みたいな着物じゃないし。なんか小洒落た雰囲気もあるよな。俺の普段着より、ずっと良い。
それに、ほら。左胸――心臓の辺りにある五重の円とそれを取り囲む宝石は、改めて見るとなかなか格好いい……ような気がしないでもない。
「……良かった探しは、これくらいにするか」
正直、精神的に苦しくなってきた。
状況を整理しよう。
ストーカー男に刺されて、気づいたら洞窟でカカシになっていた。
なんかもう。わけわかんねえな、これ。というか、整理できてねえ。とっ散らかりすぎだろ。
誰かに説明を求めたいところだが、水面に映るカカシは朗らかな笑顔を浮かべるだけだった。どんなに頑張っても、表情を変えることはない。
「……それでも、グレゴール・ザムザよりはまし……か?」
目の前に突きつけられた非情で意味不明な現実。
時間が経つにつれ、自身の姿を否定するのではなく、奇妙なことに納得しつつあった。
今まで目を背けていただけで、なにかに変わってしまったという自覚があったというのは確かだ。
それに、グレゴール・ザムザ……虫なんかよりはまだましという消極的な肯定もある。
けれどそれ以上に、あまりにも現実離れした事態に直面すると、余計なことは考えなくなるらしい。
俺はカカシだ。
それを踏まえて、どうするか。そのほうが、よっぽど重要じゃないか?
自棄なのか前向きなのか。俺自身にも分からないが、気になること、確かめなくてはならないことはたくさんある。
どうして、こんな姿に変わったのか。
カカシであることに意味はあるのか。
元の姿に戻ることはできるのか。
そして、そもそもここは本当に死後の世界なのか。
といった重要で根本的な問題の他にも、疑問は尽きない。
こんな状態でも食事は必要なのか。
呼吸は、睡眠はどうなんだ。
そんな、些末だが生きる上で重要な疑問もある。
とりあえず、呼吸はしていないようだ。まあ、カカシの体を動かすのに酸素が必要とも思えないので、ある意味当然か。そうなると、声がどこからどう出ているのかという疑問も出てくるのだが。
それに関しては、最悪、そういう生き物だからということで思考停止する手段もある。カカシが生き物だとは、なってみるまで想像もしていなかったけどな。
それはいったん脇に置き食事と睡眠だが、今のところどちらの欲求も感じられなかった。
これらに関しては、まだ結論は出せない。多少時間をかけて確認する必要があるだろう。
あとは、食事が不要ならば、代わりに活動するためのエネルギーはどうやって得ているのかも確かめねばならない。
人間から、カカシになった。
それだけで、問題山積だ。
俺は、心の中で苦笑いを浮かべる。水面のカカシの表情は変わらない。
けれど、それでなんとか折り合いを付けた。
……その瞬間。突然、水面が揺れた。
俺――カカシの姿が割れ、水中からなにか巨大なものが飛び出してきた。
「なんとぉ!?」
自分でも意味の分からない叫び声を上げながら、俺は弾かれたように動き出す。
筋肉どころか神経もなさそうな体。それなのに俺の意思に従って竹の足は跳躍し、1メートルほど後に飛び退った。過去最高記録だろ、これ。
多少前後に揺れたものの、そのまま倒れもせず着地に成功。相変わらず、足下は柔らかい。なにか不思議な力が働いてバランスを保っているのだろうか。
しかし、そんな考察は早々に放棄せざるを得なかった。
水底から姿を現した生物。
それは、巨大なエビだった。
そう。見上げるほど大きなエビだ。それが、尻尾の部分で立ち上がり俺を見下ろしている。横からのシルエットだと「9」のように見えるだろう。
……なんで、エビが立ち上がってるんだ。意味が分からない。いや、そもそも陸に上がるなよ。エビなんだろ。
体のほとんどは透明に近くで、赤みがかった色が付いているのは殻の節々と頭の近くだけ。
細く、わらわらと生えている足に生理的な嫌悪感を催してしまう。
けれど、それも真っ黒な目に比べたらなんということもない。
光を反射しない、黒一色の瞳。
不気味で感情のこもらない瞳にさらされ、俺はじりじりと後ろに下がっていった。
どういう仕組みなのかは皆目見当もつかないが、直立する竹の足で地面を擦りながら移動できたのだ。新発見だが、この状況では嬉しくない。
「お、おはようございます……?」
それで心の余裕ができたのか。
あるいは、未だ混乱の最中なのか。
とにかく、俺は、巨大エビとのファーストコンタクトを試みた。
挨拶は大切。
社会人の常識だ。といっても、俺はまだ学生だが。いや、今はカカシか。
そんな風に混乱する俺を、巨大エビは文字通り、エビ反りのような姿勢で見下ろし続ける。
まるで、俺を値踏みでもするかのように。
もしかすると、向こうも見慣れない生き物――俺のことだ――に、戸惑っているのかもしれない。
なるほど。だとしたら、まさにお互い様。
それに、カカシが動いて喋る時代だ。巨大なエビがフレンドリーに接してきてもおかしくはない。
――しかし。
それは、あまりにも希望的な観測だった。
エビ反り状態だった巨大エビが予備動作もなしに体を倒し、その気持ち悪い何本もの足を俺に向けてきた。
エビの生態には詳しくないが、捕食行動以外のなにものでもない。
「やっぱ、そうなるよなぁッッ!」
それを半ば予想していた俺は、その場でぐるりと回転して走り出す。
というよりは、跳んだ。跳ぶことしかできない。
両腕を――イメージの中だけで――振り、立ち幅跳びの連続で来た道を戻っていく。
必死さが影響しているのか。それとも、イメージだけでも効果があるのか。この水場へやって来た時よりも、明らかに飛距離が増していた。
だが、相手も追ってきている。
首の可動域の問題で振り向くことはできないが、それが分かった。
なにしろ、カサカサカサカサと足を動かしている音がするのだ。たまに、岩を砕いているような音も。分からないはずがなかった。
こう、音だけだと、エビというよりは巨大な虫に追われているような感じだ。
ストーカー男よりも、気持ち悪いッ!
「っていうか、確かエビって水死体とかも食べるんだったよなぁっ」
今の俺に可食部があるとは思えないが、巨大エビのほうにも、そんな分別があるとは思えなかった。たぶん、捕まえて食べられなかったら、ペッと吐き出すだけだろう。
本格的にヤバイ。
俺は心の中でギアを上げ、ぴょんぴょんぴょんぴょん跳び続ける。
カカシの体だからか、息切れも疲れもしていないのが幸いした。生身だったら、日頃の運動不足もあって、とっくにもぐもぐされていたことだろう。
「あっ」
印を付けていたわけではないので確かなことは言えないが、俺が倒れていた場所を通り過ぎた気がする。
結構逃げてきたな。でも、まだ逃げ切れない。
変わった――二重の意味で――手足の影響なのか分からないが、ものすごくバランスを取るのが上手くなっているのもラッキーだ。まあ、バランスという意味では巨大エビも凄いけどな。今も、俺と同じように尻尾で飛び跳ねながら俺を追いかけてきている。むしろ、なんで水中にいたんだよ、お前。
そんな、カカシとエビの追いかけっこ。
字面だけなら、まるで昔話のようなほのぼのとしたイベントだが、本人たちは真剣そのもの。
まさしく、食うか食われるか……って、今の俺じゃ、エビ食えねえよ。俺が一方的にやられるだけじゃねえか。ずるくない?
そんな理不尽な事実に気づきつつも、洞窟内を最大速で移動し――俺は岐路に立たされた。
別に比喩でもなんでもない。本当に、道が左右に分かれていたのだ。
右か、左か。
ヒントもなにもない。純粋な二者択一。
しかも、時間制限あり。
「ええい、右だっ」
マークシートでも同じ。こういうのは最初に浮かんだ選択肢が正解だ。
真っ直ぐ伸びた物干し竿のような腕で風を切り、俺は右側の通路へ飛び込んでいった。通路自体が発光しているかのように少しだけ明るく、ごつごつとした岩肌が続いている。こっち側も、特に様子は変わらない。
巨大エビも、俺を追ってこちらの通路へ入ってきたようだ。かさかさと気持ち悪い音で、それが分かる。
なかなか諦める様子を見せない。それだけ、相手も必死ということだろうか。
しかし、俺も捕まるわけにはいかない。せっかく助かった命だ。わけも分からないまま、エビのご飯にはなりたくなかった。
しかも、食べられないからと、捨てられる可能性まであるのだから。
とりあえず、エビは入れないけど俺だけが通れるような脇道のようなものはないだろうか。それが無理なら、ちょっとした裂け目でも構わない。
とにかく、今は逃げなくては。
「って、こんなオチかよっ!」
だが、幸運の女神は微笑んではくれなかった。
カカシとエビの追いかけっこは、無慈悲に打ち切りを宣告された。
俺としても大いに不本意だが仕方がない。なにしろ、これ以上先に進むことができない――行き止まりにぶち当たったのだから。
「というわけで、ここで解散……にはならない……よな……?」
竹の一本足を軸に、ぎりぎりぎりと錆び付いた機械のように後ろを振り向きつつ現地解散を提案する。
だが、真っ黒な両目に却下されてしまった。
相手も結構無理をしていたのか。いきなり襲いかかってきたりはしないが、じりじりとこちらの隙を狙っている。
戦って死ね。
いや、死ぬぐらいなら戦えということらしい。
「――そうと決まれば、先手必勝!」
ストーカー男を向こうに回した経験のお陰か。それとも、逃げている間に覚悟が決まっていたのか。
俺は迷わなかった。
体ごと突っ込むような勢いで、巨大エビへと向かって行く。
この行動は相手も予想外だったらしく、エビ反りになったまま反応できない。
チャンスだ!
「おおおッッ」
威嚇するように、気合いを入れるように叫び声を上げる。
そうして、体を竹とんぼのように回転させ、全力で殴りつけた。
エビらしい、殻の硬い感触。
それを感じた瞬間、ぴしりと殻にひびが入る。痛みを感じているのか、巨大エビがただでさえも反っている体をさらに仰け反らせた。
通用……したッ!
破れかぶれの攻撃。どうせ効果はない……とまでは考えていなかったが、これほどだとも思っていなかった。
あれ? 俺、意外と強いのか?
とはいえ、調子に乗ったりはしない。一応、大学生だからな。
立ち向かいはしたが、真っ正面から戦うつもりではなかった。
一発殴って隙を作り、脇をすり抜けて離脱。もう一度追いかけっこに持ち込み、あわよくば巨大エビが補食を諦める。
期待していたのは、そんな展開だ。
遠心力を利用して体を入ってきた洞窟の通路へ向け跳躍――はできたが、そこでしっぺ返しを喰らった。
最初に感じたのは、風。
続けて、扇のように大きな物で全身を強かに打ち据えられた。
エビの尻尾か?
それを認識したのは、壁に衝突して、地面に倒れ伏した時だった。着地する寸前だったので、盛大に吹き飛ばされたようだ。
しかし、天ぷらやフライなら残す部位に殴られて吹っ飛ばされた人類は、俺だけだろうな。
派手に吹っ飛んだわりに、痛みはあまりない。竹の手足にひび割れた様子はなく、なんでできているのか分からない体や頭も裂けたりしている様子はなかった。
それどころか、手袋も帽子も一体化でもしているのか、落っこちもしていないぐらいだ。
しかし、攻撃と落下の衝撃で、すぐに動けそうにない。
そんな俺に向かって、巨大エビがまたカサカサカサカサと近づいてくる。こうなると相手も意地で、なにがなんでも俺を食べてしまいたいようだった。
ぞわぞわと、背筋が泡立つ……感覚。
こうなると、もう、やり過ごすなんて言っていられない。
カカシとエビの生存競争だ。
地面にうつぶせになっていた俺は、背筋をするイメージで体を起き上がらす。
それを待っていたかのように、再び気持ち悪い何本もの足を差し向けるエビ。
あれに捕まったら終わりだ。
もう、逃げ場はない。
武器もない。
活路は、前にしかない。
そう決意をした瞬間、脳裏に黒髪の美少女の儚げな笑顔が浮かんだ。
整った、透明感のある、俺に全幅の信頼を寄せる、妹の微笑みが。
「一日に二回も死ねるかよッ!」
妹――莉桜の笑顔を思い浮かべながら叫びをあげると同時に、俺は跳躍して巨大エビとの距離を詰めた。
そして、着地すると間髪入れずに、ぐるりと体を回転させる。
今までにないスムーズな動き。一気に、この体に馴染んだ。そんな気すらする。
さっきと同じ攻撃。カカシになった俺には、これしかできない。
だが、さっきとは違っていた。
カカシの――俺の両腕が、淡く青い光に包まれている。
なにが起こったのか分からない。分からないが、そんなのは今に始まったことじゃない。俺は、気にせず全力で腕を振り抜いた。
激突するカカシと巨大エビの腕。
「ぬおぉおっーー」
回転するコマのように、俺は再び吹き飛ばされた。
しかし、さっきほどじゃない。反対側の壁にぶつかる前に、足から着地できた。やっぱ、この竹の足にはオートバランサーがありそうだな。
一方、巨大エビは微動だにしない。正確には、動けないのか。
それも、当然。
エビの前足――で良いのか? まあ、とにかく、足が何本かまとめて吹き飛んでいたのだ。
自覚はなかったが、さっきの一撃はかなりのものだったようだ。これには、俺も相手も驚いて動きが止まった。
だが、俺はエビのことなど見ていない。
なにかに導かれるように、自らの左胸に視線を向けていた。
左胸に描かれていた五重の円と、その周囲を取り囲む宝石。
ひとつだけ黒く染まっていた宝石が、変化していた。真っ黒だった宝石の天辺。要するに、黒かった宝石の一部が白くなっていた。
まるで、メーターのように。
本当にメーターだとして、減ったのは宝石の1割ぐらいか。
もしかすると、今の技を使うと減るのか?
状況からして間違いないとすると、今のを使えるのはあと9回。いや、空っぽにすると怖いから8回か。
……かといって、出し惜しみして死んだら、ただの馬鹿だ。
「エビに喰われてたまるかッッ!」
それは、魂の叫びだった。
足を吹き飛ばされた巨大エビが戦闘態勢を取るよりも早く――たぶん、戦闘継続か撤退か迷っていたのだろう――俺は頭から突っ込むような勢いで飛び跳ね、間合いを詰めた。
できれば、格好良く走り寄りたかったが仕方ない。今は、これが精一杯だ。
代わりに、俺の両腕が再び淡く青い光に包まれた。
体をやや傾け、斜めに接地した竹の足を軸にして回転。
ストーカー男に反撃した時のような勢いで、両腕を巨大エビの腹の辺りに叩き込んだ。
めきっ。ぶちっ。
殻を砕き、内部の肉まで断つ音を確かに聞いた。
俺の耳がどこにあるのか分からないが、それは幻聴なんかじゃない。
血だかなんだかよく分からない粘液の感触は残っているし、なにより、巨大エビが真っ二つになって地面に転がっているのだから。
「勝った……」
俺と巨大エビ。両者を見れば自明のことだが、言葉にするとその事実がじっくりと染み渡ってくる。
自ら手を下したことに思うところはあるが、今は安堵のほうが強い。
しかし、カカシの俺では、手を合わせることもできない。
偽善かもしれないが、せめて頭だけでも垂れようと思ったそのとき。
「うぉっ」
相変わらずどこから出ているのか分からないが、俺の発した驚きの声が洞窟内に響いた。
誰に言い訳するわけでもないが、驚くのも当然。
俺が真っ二つにした巨大エビがプリズムに包まれ、やがてきらきらしたそれも弾けて消えてしまったのだ。
このエビの特性なのか。それとも、この洞窟で死んだらそうなるのか。
後に残ったのは、手のひらサイズぐらいの丸い石だ。不思議な光沢を放ち、緑色をしている。
「今の俺には、手のひらもないけどな」
まあ、そんな自虐はともかく、そうなると困ったことになる。
カカシの俺は、石ひとつ拾うこともできないのだ。
あの石の価値も危険性も分からないが、気になる。
どうするかは保留のまま、慎重に緑色の石へと近づいていく。
「最悪、足で蹴りながら運んでいくか。学校帰りの小学生みたいだけど……」
それはいろいろ問題ありそうな気がするが、背に腹はかえられない。
実行に移すかどうか別にして、とりあえず、竹の足で触れてみようか。
注意深くというよりは、地面を擦るようにして恐る恐る距離を詰めていくが……。
それが果たされることはなかった。
触れる寸前。いや、触れようとしたちょうどそのとき。
巨大エビの置き土産である緑色の石が、同色の光を放って、俺の胸へと吸い込まれていったのだ。