01.そして、彼は生まれ変わる
気づけば、洞窟のなかにいた。
トンネルのようになった岩の天井と、背中から伝わるごつごつした感触が、その直感が正しいことを告げている。
だが、理性が直感を否定した。
なんで洞窟なんだよ、と。どうして、あの路地じゃないんだよ、と。
理性が常識を主張する。
しかし、さすがの理性も現実には弱い。どれだけ経っても状況が変わらない事実に、理性は敗北を喫した。
「どこだよ、ここ……」
洞窟の見分けがつくはずもないが、それ以前に、見憶えも心当たりもない。
そもそも、俺はストーカー男に刺されて死んだんじゃなかったのかよ。仮に生きていたとしても、運ばれるべきは病院であって、洞窟じゃないだろ。
というか、重傷者を洞窟に放り込むとか、どんないじめだよ。列車ごと埋め立てる国か。
まったく動く気になれず、俺は大の字になったまま天井を眺め続ける。
自分でも不思議なぐらい、やる気が湧いてこなかった。理由は分からない。もしかしたら、現実逃避をしていたのかもしれなかった。
仄かな明かりの中、いたずらに時間が過ぎていく。
動くのに支障はなさそうだが、やはり暗く見知らぬ場所だと良い気分ではない。
「俺は、千早雅紀。一人暮らしの大学生で、恋人なし。内定はあり」
重圧に負けて、俺は自分自身へ自己紹介を始めた。
「中学生の頃に一家で事故に遭って両親と死別。その事故から10年もせずに、妹まで難病でこの世を去り、俺だけが残された」
――その俺も、サークルの後輩のストーカー被害に関する相談を受けたら、そのストーカー本人に刺されて死んだ……はず。
よし。とりあえず、記憶は正常。
自分のことも、分かっている。
つまり、異常なのは俺じゃない。この状況。
それが分かっただけでも収穫だな。
こうして軽い状況分析は終わったが、待てど暮らせど、洞窟の風景は変わらない。ついでに言えば、辺りに誰の気配も感じられなかった。
俺の意識が途絶える前、あの路地には俺の他に二人の人間が存在していた。
あの二人は、どこへ行ってしまったのか。
ストーカー男がいないのは、良い。むしろ、いて欲しくはない。
しかし、彼女がいないのは、少し心配だ。あのストーカー男になにもされていないと良いのだが。ついでに、変なトラウマも発症していなければなお良い。
分かってる。それが無茶なお願いなのは、分かってる。なにせ、目の前で刃傷沙汰が起こったんだからな。
でも、希望を抱くのは自由じゃないか。
「まあ、今は自分のことを考えよう!」
彼女に関しては、考えれば考えるほど底なし沼にはまっていく。
それはよくないと、俺は現実の問題へと思考をシフトさせた。
「ほんと、ここはどこなんだよ……」
今なお、全身が倦怠感に包まれ動く気がしない。俺は、怠惰に身を任せながら思考を巡らす。
もしたら、ここはいわゆる死後の世界というやつなのではないか。
普通なら笑い飛ばされるし、俺自身一笑に付す思いつき。
しかし、気を失う前のシチュエーションと考え合わせると、これが最も合理的な答えに思える。
なにしろ、あれだけ存在を主張していた痛みは綺麗さっぱり消えているのだ。その上、血が流れている感触もない。
死後の世界が、合理的か……。
とりあえず、見える範囲に他の死者……亡者と呼ぶべきか。まあとにかく、他に人はいない。気配もない。
こんな場所が天国とは思えないし、地獄なら案内の鬼ぐらいいても良さそうなものだ。しかし、迎えにくる様子はなかった。まさか、昼休みってわけでもないだろう。
けれど、いないものは仕方がない。
次に、俺は改めて周囲を見回した。
洞窟は、まるで壁自体が淡く発光しているかのように明るい。
お陰で周囲の状況が分かるのだが、どこをどう見ても岩の洞窟にしか見えなかった。ただ、修学旅行で行った鍾乳洞とも、どこがとは言えないが、少し違う。
通路……と言って良いのか。横幅は、俺が両腕を広げたまま寝っ転がっていても壁に触れないほど広い。だいたい、3メートルぐらいか。天井は、もう少しありそうだ。
洞窟洞窟と言っているが、かなり広く圧迫感はあまりない。また、空気は冷たく、澱んでもいなかった。
まあ、総合すれば悪い環境ではない……か。
ここが本当に地獄でなければ、だけど。
「そうかぁ。地獄かぁ……」
試しにつぶやいてみるが、胡散臭さが半端ない。今時、地獄とかねえわ。
そもそも、俺は死後の世界とか幽霊とかそういうオカルトめいたものは信じていない。
天国だろうと地獄だろうと。たった21グラムしかない魂が行く場所なんて、どこにもないと思っていた。
そりゃ、死んだ両親や妹と会いたいと思ったことは何度もある。美味い物を食ったときや驚くようなニュースに接したとき、生きていたらどう思うかな、なんて考えたことは数え切れないほどだ。
近しい人を失って、哀しかったのは間違いない。
でも、幸いにして、それに溺れることはなかった。
「みんなに会えるんなら死んだことに後悔もないが……なんで地獄なのか」
目をつぶり、そんなつまらないことを口にした。
それにしても、地獄じゃ両親にも妹にも会えやしない。
どうやら、人を傷つけたのがまずかったみたいだ。こうなったら、正当防衛を閻魔様に訴えるしかないか。嘘じゃないから、舌を抜かれる心配はないだろう。
大丈夫。地獄なら、弁護士はたくさんいるに違いない。
そこまで考えて、俺はふっと笑う。
……おや?
おかしい。
笑ったつもりだったが、表情がまったく動いていなかった。口が開いたり、頬が緩んだり。そういう当たり前の動きが感じられない。
いや、そもそもだ。
声は出ていた。それは間違いないが、俺は口を動かしていただろうか?
目もつぶったはず。しかし、俺はまぶたを閉じていたか?
今まで目を背けていた問題を突きつけられた。
そんな焦りを感じてしまう。
とりあえず、寝っ転がったままではこれ以上は分からない。わけの分からない切迫感に突き動かされ、俺は起きあがろうとした。
しかし、上手くいかない。背中は浮いたが、それ以上は動かなかったのだ。
おかしい。
それならばと、地面に手を突いて体を起こそうとしたが、そもそも肘が曲がらなかった。ぴくりとも動かない。まるで、腕が棒になってしまったかのよう。
わけが分からなかった。
焦燥が、恐怖に変わる。
とにかく、動かなくては。
「い……よっとぉっっ!」
俺は何度も何度も何度も腹筋運動をして、なんとか起きあがることに成功した。正確には、立ち上がることに成功した、か。
まるでバネ仕掛けのおもちゃのように、その場に直立したのだ。
その反動で体が前後に揺れるが、なんとか倒れることなくやり過ごす。
しかし、足下に違和感を感じる。まるで羽毛の上に立っているかのよう。なんなんだろう? 軽くしか地面に触れてないのに、妙に安定している気がする。
それに、両腕が真っ直ぐで、バランスが取れていたのも良かった。
……両腕が、真っ直ぐなんだよなぁ。
というか、曲がらないんだけど……?
首の可動域も、寝違えたときのように狭い。それでも、なんとか首を振って左右の腕を見ると……。
なぜか、黒い服の袖が見えた。
スーツの上着というよりは、学ランに近い印象。
刺されたときは普段着だったので、いつの間にか着替えていたことになる。
まあ、これは良い。良くないが、良いとしよう。するしかない。
問題は、その先。
真っ直ぐ伸びた両腕の先には、白い手袋がぶら下がっていた。
手袋をはめているわけではない。ぶら下がっているのだ。
つまり、手袋にはめるべき指がなかった……。当然、手を握ることも開くこともできない。
それなのに、俺はそれに一切の違和感を感じていないのだ。
おかしい。明らかに、おかしい。
いや、刺された傷が痛くないし、血も流れていないのもおかしいのだが、それは死んだ後だからということで気にしていなかった。
だが、体が変わっているのはおかしいし、なによりわけが分からない。
不合理で、理不尽な自分自身の変化。
ストーカー男にすら感じなかった恐怖を、今になって感じていた。
「そうだ。鏡で……」
確かめよう。今の俺が、どうなっているのか。
鏡でなくても、水場ぐらいどこかにあるだろう。
俺は、そのまま走り出す。どっちが奥か入り口かも分からない。だから、このまま前へ。
しかし、動けなかった。
前に踏み出そうとした足は棒のように体を支えるだけで、その場から一歩も動けなかったのだ。
倒れずに済んだのは、やはり棒のような両腕でバランスが調整された結果だろう。
左右だけでなく上下にも可動域の狭い首を動かし、足元を見る。
「……なんだこりゃ」
もう、驚かなかった。
ストーカー男に刺されてからこっち、びっくりは品切れだ。
諦めとあきれがミックスされた心境で、一本だけになった足をしげしげと見る。一本だけになったと言っても、片足で立っているという意味ではない。
最初から一本しかないと言うべきか……。いや、それじゃ、もっと意味不明だ。
要するにだ。俺の体の中心から、一本だけ足が生えているのだ。
うん。意味分かんないな、これ……。
真っ先に連想したのは、妖怪のから傘小僧。
傘の柄が足になっていて、ぴょんぴょん飛び跳ねるあれだ。
ただし、俺の場合は下駄を履いていない。
というか、実のところ、足ですらない。ただ、棒が一本、体から突き出ているだけだった。
「落ち着け、落ち着け」
そうだ。死んだらそれまでだって思ってたじゃないか、俺。
それに比べたら、こんな状態でもまだましだろ、俺。
「……よし」
俺は、ただ、前を見つめた。
人の瞳が前についているのは、未来へ向けて生きていかねばならないからなのだ。
いろいろと覚悟を決め、立ち幅跳びの要領でジャンプする。
「おおっ」
これが正解だったのか。数十センチメートルと距離は短いが、前進することができた。俺にとっては偉大な一歩だ。
成功に気を良くした俺は、前方に跳んでは洞窟の床面に杖を突き立てるようなイメージ着地……したのだが、足下の感触は柔らかい。
いや、地面に突き立つというよりは、微妙に浮いているというかなんというか。着地の瞬間、びーんと体が前後に揺れるが、倒れることはない。飛んでいるわけじゃないんだけど……なんか言葉にできない不思議な感覚だ。
ただ、移動に支障はない。それに、繰り返していくうちに、段々と楽しくなってきた。
童心に返っていくかのようだ。
……現実逃避だとは分かっているけどな。
端から見ればシュールそのものでも、俺としては結構本気だ。ぴょんぴょんと、弾かれるように移動していく。飛び跳ねていても、両手の手袋はぶらぶらと揺れるだけで落ちることはない。どういう仕組みなのが気になるものの、手が届かないので確かめようがなかった。
幸か不幸か、多少のカーブはあるものの一本道。迷うことすらできずに奥へ奥へと進んでいくと、俺が探し求めていた水場に出くわした。
若干作為的というか陰謀を感じないでもないが、好都合であることは間違いない。
分類としては地底湖ということになるのだろうか……。まあ、見える範囲だと、半径5メートルもない池のようなものだけど。
日常生活ではお目にかかれない、綺麗な泉だ。
それにしても、あっさり水場が見つかったのは、運が良いのか悪いのか……。
「……いくぞ」
決意を声に出し、精神的な退路を塞ぐ。
俺は緊張しつつ縁に立ち、泉を覗き込んだ。
透明度の高い水面に、俺の姿が映し出される。
最初に目についたのは、胸――心臓の辺り。
その部分だけ服が破れており、五重の円が描かれていた。そして、その周囲を10個の石が取り囲んでいる。というか、埋め込まれている。
そして、その10個ある石のうち、ひとつだけが真っ黒で金色に縁取られていた。他の9個はガラスのように透明で縁取りもない。
なんだろう、これは。どう考えても普通ではない。
しかし、普通かどうかでいえば、ぶっちゃけ、全身くまなく普通じゃなかった。
今まで気づかなかったのだが、俺は黒い帽子をかぶっていたようだ。学ランに見えたのは、神父が着ているカソックというやつだった。
そして、棒だと思っていた足は竹で、両腕もわずかに見える部分から判断すると同じ素材でできているようだ。
顔には、デフォルメされた大きな目と口が描かれており、木の鼻が生えている。
ただし、どんなに意識をしても、目や口を閉じることはできなかった。喋れるし、目をつぶろうと意識すると視界は真っ黒になるのに不思議だ。
「それにしても、これは……」
服装は別にして、俺はこいつを知っている。
カカシ。
カカシだ。
忍者じゃない。畑にいるほうのカカシだ。
原因も理由もさっぱり分からないが、俺はカカシになっていた。