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「ごめんね、帰ってきたばっかりなのに、家まで送ってもらっちゃって」
「別にいいよ。どうせ何も予定なかったし……置いてくわけにもいかないだろ」
水浸しの葵と並んで、住宅街に続く坂道を上っていく。
葵はそれっきり俯いてしまって、しばらく無言で歩いた。
横目で盗み見れば、眉を寄せ苦悶している横顔が伺える。
それほどまでに、海に落ちたことを引きずっているんだろうか。
昔はあれほど川遊びやら飛び込みやらしていたのに、いつの間にやら、どこかで恥じらいというものを覚えてきたらしい。
1歳しか違わないものの、兄のような気持ちでいた大和は、少しの寂しさを覚えて肩をすくめた。
「……」
夏の風物詩ともいえる風鈴の音が、どこからともなく聞こえ、蝉と合唱を奏でている。
軽快で、とても夏らしい音楽だ。
毎日のように歩いていた長い道は、4年の月日を経て、小さく、短く感じられた。
「あ、あのね。わたし、大和にその……訊きたいことあるの。いっぱい、たくさん」
ふと、蝉の声に掻き消されてしまうほど小さな声が、大和の耳にかろうじて届く。
隣に立つ葵へ視線を向ければ、顔を俯かせ、しおらしげにしている様子に思わず首を傾げた。
「なんだよ、改まって。お前そんな柄じゃないだろ」
「わ、わたしだって成長したし! あの頃と同じだと思ったら大間違いなんだからっ!」
大和の言葉にふくれっ面で言いかえす様は、幼い頃とまったく同じだ。
見た目は成長していても、中身は変わらないな。
そんな素直な気持ちが無意識に口から出そうになって、慌てて閉ざした。
「で、大和に訊きたいことなんだけど。その……憶えてるかなって」
「何を?」
「な、なにって言われると……その、」
しどろもどろに問いかける葵は、どこか挙動不審だ。
たぶん、葵にとってとても大切ななにかを、確認しようとしていることだけは分かった。
大和は『憶えてる』という言葉の差す出来事を、記憶をなぞるように思い出そうとする。
だがその作業は思いのほか、早くに見つけられた。
―――ああ、そうだ。
「憶えてるよ。お前とした約束、だろ?」
「……あ、ああ……約束、かあ」
「なんだ、違った?」
「ううん! 大和も憶えてくれてたんだなって、ちょっと感激したの」
「そりゃ憶えてるよ。色々あって今まで忘れてたけど」
「忘れてたんじゃん!」と言いながら笑った葵は、けれど、すぐに憂いを帯びる大人の顔つきへ変えた。
その表情に、目が釘付けになる。
幼かったときにも見せた、儚げな表情を、今でもはっきりと覚えている。
たぶん、それが初恋のきっかけだったんだと思う。
重なるふたつの沈む顔に、あの日の淡い恋心が鮮烈に蘇ってきた。
葵とは、ひとつの約束を結んでいた。
幼い子供の、精一杯の想い。
『すき』という言葉の代わり。
「『ヒーローになって、平和を取り戻すから。だから―――』」
「ちょ、たんまたんま!」
「え? どうして?」
葵が言い出した昔の約束ごとを、顔を真っ赤にしながら手を振って遮る。
きょとん、と見上げる葵には、大和の恥辱は理解できないだろう。
「どうしても何も……は、恥ずかしいだろ? 子供の頃だったとしても、そんな臭いこと言うとか……ないわ」
「恥ずかしくなんかないよ。すっごくかっこよかったよ!」
拳を握りしめて力説する葵に、大和はたじろいだ。
「うん、大和すっごいかっこよかった! ほんとにほんとのヒーローだったもん!」
「あ、葵……ちょ、まって」
「あの時から大和は、私の、私の……その、」
口ごもる葵は、真っ赤にした顔を隠すように俯いた。
暗に意味するところを察して、つられたように大和も赤くなってしまう。
海の香りがする風が、火照った顔を冷ますように吹いてくる。
濡れていた身体を震わせた葵は、肩を寄せ、そして―――。
「……っ、ぐちっしゅ!」
「今の、くしゃみか?」
あまりに可愛げのないくしゃみに、大和はひどく残念そうに溜息を吐いた。
鼻をこする葵は涙目で見上げてくると、「だって寒かったんだもん」と不貞腐れるように呟く。
まるで言い逃れしようとする犯人のようだ。
「早く帰るか。夏風邪ひいたら、せっかくの夏休み楽しめないからな」
「あ、ねえ!」
先導する大和の背にすがるように、葵の声が足を止めさせた。
振り向けば、なにかを期待するような瞳とぶつかる。
「大和は、いつまでいるの?」
「夏休みいっぱい、いるつもりだよ」
「それって、31日まで?」
「31日まで」
その言葉に頷くと、予想に反して複雑そうな、困ったような顔を浮かべた葵に、大和は戸惑いを感じた。
「……どっか、泊まるとこあるの?」
「ああ……うーん、どうしよっかな」
葵の重なる問いに、頭を掻く。
安い民宿やビジネスホテルもあるが、連泊するほどの大金は持っていない。
頼る親戚もいないのだから、現時点で野宿以外、術はないだろう。
「変わって、ないなあ……」
「え?」
「変わってないなって。そういう無計画さとか、考えるより先に行動ってところ」
「そうかあ? これでも思慮深くなったほうなんだけど」
状況と矛盾した物言いに、葵はくすくすと小さく笑った。
そして大和の腕を取ると、軽い足取りで走り出す。
「きて! お父さんに頼んでみる。部屋いっぱい空いてるの!」
「え!? で、でもお前の家って……!」
大和の反論に聞く耳など持たない、楽しげな葵に引かれるまま、坂道を上っていく。
頭上の太陽に照らされ、雫を散らす葵の姿はきれいに輝いて見えた。




