1 8月5日
18回目の夏は、特別なものだ。
その3回前の夏も特別だったけれど、今回の夏はなによりも特別だ。
夏がはじまった、8月。
あっという間におわるのだろう、この夏に、彩りを加えるべく藤原大和は遠出をする。
『次は、終点、終点。千木良駅です』
運転手の案内に、誰かが降車ボタンを押す。
目の前にあった『とまります』が点灯したのを見てから、大和は視線を窓の外へと戻した。
揺れるバスから見える景色は、見知っているものと何一つ変わってはいない。
既に飲み干したペットボトルを握りしめ、懐かしむ感情を押し殺した。
ずっとこの町に、戻りたかった。
引っ越してから4年ぶりの里帰りだ。
記憶と大差ない景色に安堵するほど、帰りたいと願い続けて止まなかった場所だった。
海沿いにある町は、田舎というほど辺鄙な場所ではないものの、それでも時代から置いて行かれたような懐古さが残っている。
一面に広がる大きな海。
太陽の光を反射し、きらきらと輝く青い海面。
さざめく波に揺られる大小様々な漁船。
防波堤で遊ぶ小さな子供。
古びた看板を掲げる、小さな店。
愛しい故郷の風景を、大和は眩しげに眺めた。
荷物はボストンバックひとつだけ。
乗客がまだらなバスは、終着駅を目指して走り続ける。
―――高校3年の夏休み。
さいごの夏休みを、ここで過ごすと決めていた。
決して近くはない距離に、貯金は半分も削られてしまったが、悔いはない。
大和の心は解放感に溢れていた。
『まもなく終点、千木良駅。乗車のお客様はお忘れ物のないよう……』
最後のアナウンスと共に、バスが緩やかに減速していく。
正面に見えたのは、停留所の案内表示だ。
『千木良駅』とだけ書かれた簡素な終着駅の傍で止まり、たった3人だけの乗客が降りていく。
続いて大和も降り立てば、潮の香りが鼻先をくすぐった。
長いこと座っていた背を伸ばし、青々とした海を見渡す。
戻ってきた。この町に。
波の音が胸に染み渡り、しばらく立ち尽くす。
どうせ時間の縛りもないのだから、久しぶりの海を堪能しようと、大和は思った。
予定も行先も綺麗な白紙の里帰りは、まるで自由に戻してくれるようだ。
入道雲と飛行機雲が伸びる空。
太陽の眩しさを、手で遮ったとき―――ふいに大和は、雲のような真っ白な鳥に、目を奪われた。
なにひとつ穢れも色の混じり気もない、どこまでも純粋な白色を持つ鳥は、大和の頭上を駆け抜けていく。
無意識に目で追いかけた大和は、鳥が降り立った防波堤に、ひとりの少女が腰かけていることに気付いた。
鳥と同じ、真っ白なワンピースを着た同じ年頃の少女だ。
少女は鳥が傍にいることにすら気づかず、手に持つノートをなにやら熱心に見ている。
「―――……」
長い髪が風に遊ばれる様を、呆然と眺めていた。
まるで絵に描いたような存在だからだろうか。
胸が締め付けられる不思議な感覚に、その場を動けなかった。
だがあまりに無遠慮な視線だったからか、不意に少女の顔が上がり、大和がいる方へと向く。
合わさった瞳に動揺した大和は、すぐに目を逸らし踵を返すも、背後から聞こえてきた声に足を止めた。
「―――大和?」
呼ばれた自身の名に、反射的に振り返る。
少女はじっと大和を見つめていた。
驚きと、嬉しさが混ぜ合わさったような瞳は、今にも泣きだしそうだ。
「やま、と」
たどたどしく、確かめるように唇から彼の名が漏れる。
自分を知っている様子に、大和は怪訝に眉を寄せながら記憶を掘り返した。
だが深くまで掘らずとも、存外簡単に、単純なきっかけで少女の名を思い出す。
記憶にある姿よりも成長していようと、涙が滲む瞳は、変わることはなかった。
「あ、葵?」
指差しながら、4年前の幼さから脱皮したかのような変貌を遂げた少女、片山葵は、見惚れるほどに綺麗になっていた。
その変化を信じがたいと言わんばかりに、疑心を込めて名前を口にしたのだが―――。
どうやら大和が彼女を覚えていた、という事実がよほど嬉しかったらしい。
ぱあっと笑顔を輝かせると、葵は咄嗟に立ち上がって声を張り上げた。
「大和、大和だ……っ!」
だが突然の動きに驚いたのは、大和だけではなかった。
葵の傍らにいた鳥はバサバサと羽を振り、高い鳴き声を出す。
「わ、わわっ!」
慌てる様子から、どうやら今の今まで鳥の存在に気付いていなかったようだ。
荒ぶる動きをする鳥に気圧され、一歩二歩と足が後退していく。
今にも落ちそうな葵に、大和は咄嗟に駆け寄った。
防波堤の下は浅瀬だ。
この後の展開が予想できた大和は、慌てて葵へ制止を呼びかけた。
「お、おい! とま―――っ!?」
「ぬっひやあっ!」
―――だが、遅かったようだ。
一瞬でも見惚れた女性の、聞くに堪えられない叫びのあと、盛大な水音が耳に届く。
勝利した鳥は誇らしげに青空の彼方へと飛び去り、残されたのは浅瀬に身を浸ける敗者だった。
「大丈夫か?」
上った防波堤から見下ろす。
自分の身に起きたことを数秒遅れで理解した葵は、大和を見上げると「えへへ……」と困り果てた様を隠すように笑った。
「相変わらずドジだな、お前」
「あ、でもこれだけは死守したよ!」
そう言って、先程まで葵が見ていたノートを誇らしげに頭上に掲げる。
少し端が濡れてしまっているが、乾かせば問題ないくらいだ。
夏休みの宿題か何かだろうか。
葵の必死さに大和は小さく吹きだすと、4年という歳月を感じさせない幼馴染にどこか安堵し、手を伸ばした。
「ほら」
差し出された手と大和の表情を交互に見る葵は、頬を紅潮させつつも嬉しそうに目を細めると、立ち上がって大和の手を掴む。
そして引っ張り上げる寸前―――葵は、満面の笑みで告げた。
「おかえり、大和」
その言葉に虚を突かれ目を丸くするも、照れた顔など見られたくはなくて、思わず顔を逸らす。
ただそう言われてしまったら、返さざる負えない。
久しぶりに―――本当に、久しぶりに口にする、その当たり前の言葉を、大和ははにかみながら口にした。
「ただいま」




