-1幕 電話-
疲れた。
何もかもが、色褪せ、無機質だ。
ここ数年、楽しいと感じる事がない。ここ数ヶ月、全力を出すこともない。
全てに無気力で、全てが虚ろである。
『生きながらの死』
とはよく言うが、それはとうに通り過ぎて、生きているのか死んでいるのかも分からない。
まるで、白黒の夢の中にずっといるようだ。
いや、夢というほど、意識がはっきりとしないものではない。
それに「夢」と言うと、どこか希望を含んだ言い回しのような気がするが、そんなのとは程遠い。
いうなれば、
『白黒の世界』
と、何の変哲もなく、比喩など入る余地のない、つまらない表現がお似合いだろう。
しかし、この世界も、もうすぐ終わる。
白か黒か、はたまた別の色か。なんにせよ一色に染まり、永遠の夢を見るだろう。
今、彼が立っているこの低めの椅子を倒せば、
先日購入した、直径4センチほどのこのロープが、頸動脈なんかを締め付けるのだろう。
そして、意識が混濁して・・・
なんて、想像もできないくせに、ネットで調べた程度の知識で推測する。
妻も、子供も、親も、親戚も、知人も 全て縁を切られた。
そして回りは木々が鬱蒼と茂っている。こんなところに、彼以外の人がすんでいるわけもなく、ましてや、こんなところに、客が来るはずもない。
きっと、次第に無数の蛆が湧き、蝿が集り、私の腐乱した肉を貪るのだろう。
蝿の死体処理能力については、以前、動画サイトで見たことがあり、容易に想像ができる。
その動画を見たときは、蝿の能力に素直に関心したものだが、
今それを見ても、同じ感想が抱ける気がしない。きっと、処理される者の目線で見てしまうだろうと、少しにやっと笑ってみる。
死を目の前に、動揺するかと思い、色々考察してみたが、
そんなことも必要なかったと思えるほどに、始めから落ち着いていた。
よく、ドラマなんかで縄に首をかけながら、息を乱しているのを見るが、
やはりフィクションなのだなと思う。
さあ、そろそろ行こうか。
一つ深呼吸をして、足に力をこめる。
椅子の前足が少し浮いたとき、
大音量でクラシックが流れ出した。
突然の出来事に、驚いて、曲が流れている方へ振り返る。
その拍子に、倒れかけていた椅子ごと、ひっくり返り、尻餅をついた。
尻をさすりながら、曲の流れている方へ向かう。
曲を流しているのは、とうぶん鳴ることのなかった電話機だった。
拍子抜けするほど、明るい曲調のクラシックは、どこか不気味さを醸し出している。
不審げに、電話の番号表示を見るが、「ヒツウチ」と書いてあり、誰からなのか見当のつけようもない。
仕方なく受話器を取り、
食い気味に「もしもし」と言った。
・・・返事がない。
彼はもう一度「もしもし」と言ったが、やはり応答はない。
ただの無言電話かとも思ったが、彼は違和感に気づいた。
電話や通信系のものには、大概「スーー・・・」というノイズのような音が入る。
彼の電話機もその例外ではない。
しかし、受話器の向こうからは、そのノイズのような音すらしないのだ。
彼は電話が切れているのかと思ったが、通話時間の表示は、一秒一秒、進んでいる。
あまりの不気味さに、受話器を置こうと思ったとき、受話器の向こうから、
『あなたの死亡を確認しました』
声が聞こえた。
彼は「ヒッ」と短い悲鳴をあげ、受話器を投げてしまった。
不幸にも、彼の電話機は、受話器が無線のタイプのもので、
受話器は投げた勢いで向かいの壁に当たり、鈍い音をして床に転がった。
彼はおそるそる、受話器を拾い、壊れていないことを確認し、「あの・・・」と言いかけたところで、
『あなたの死亡を確認いたしました。つきましては、遺体の回収に向かいますので、しばらくお待ちください。』
そういって、電話は切れてしまった。
彼は理解できずにいた。死亡を確認したと言ってはいるが、実際は電話のせいで死んでいない。
生きているのに、死亡を確認するなんて、ましてや遺体を回収するなんて、
理解しろという方が、無茶苦茶だ。
それに、なぜこのタイミングなのか。
死のうとしていたところを、どこかで見ていたかのような、絶妙なタイミングであった。
彼は死のうとしていたことなどそっちのけで、謎の電話について考えていた。
20分ほど経っただろうか。
外から車の音が聞こえた。
こんなところに人が来るだなんて。ましてや車で。
このあたりには、獣道程度の狭い道しかなく、車一台分の幅もない。
そのせいか、草や低木を押しのけるような、激しい音がしている。
ふと、彼は先ほどの電話で
『遺体の回収に向かいますので、しばらくお待ちください。』
と言っていたのを思い出した。
彼は何を思ったのか、扉の鍵を閉めようとした。
しかし、なぜか鍵が閉まらない。
彼は全力で鍵を閉めようとするのだが、硬くてピクリともしない。
車の音が次第に近寄ってきている。
間違いない。目的の場所は、この小屋だ。
この小屋に、人が出入り出来るほどの窓はない。
逃げ道はない。
彼は、恐怖し、絶望した。
やがて、家のすぐ前に車が止まる音がした。
そして車から人が降りる音がする。
妙なことに、回収に向かうというわりに、複数人でなく、一人だけのようだ。
普通、遺体を回収するのであれば、複数人で来るであろう。
その時、ノックする音が聞こえた。
遺体を回収すると言いながら、律儀にもノックをしてくるとは・・・
それに、勝手にドアを開けようとする様子もない。
軽いパニックに陥っていたが、深呼吸をして彼はドアを開けた。
そこに立っていたのは、屈強で筋肉隆々の雄雄しい男・・・ではなく、
いかにも紳士といった感じの、ハットをかぶった老人であった。
あっけにとられる彼をよそに、老人は
『おはようございます。お迎えにあがりました。さ、こちらへ。』
と一言。
彼には、今が夜で挨拶がおかしいことや、迎えにあがったということなど疑問に思う猶予もなく、
老人に言われるがままついてかされ、車に乗った。
『大変申し訳ありませんが、こちらを。』
老人は目隠しと耳栓を渡した。
『目的地に着くまでは、絶対にはずさないでください。』
老人はそういうと、運転席に向かった。
彼は、目隠しと耳栓を渡され、戸惑っていた。そして、一つ老人に尋ねた。
「これ、もしはずしたら、どうなるのだろうか?」
『はずす事はまず、ないでしょう。ですが、仮にもしはずしたとすると、貴方の脳みそが、車内に散らばるでしょう。』
「・・・。」
彼はこういう形で死ぬのは不本意なので、素直に従うことにした。






