動き出した蝶々
元来、欧州の中世から近世の大都市というものには、国中の約1割程度しかいなかったという。それ以外の、ほとんどの国民は農村に分布し、代々の領主に縛りつけらてきた。
それは、この異世界でも変わらない。ケールや、王太子リーフ、『光の者』であるローレルをはじめ、学び舎である『学院』へ通う貴族の子弟を含めても、この国全体に分散する国民の数には遠く及ばないはずだ。
当然、大陸全体ともなれば、いかに10万都市ウリムといえども、遠く及ばない。及ばない、はずだった。
この世界でも、貨幣経済さへ発達しなければ……――
その日、ウリムを象徴する大広場であるトロム広場には、多くの人間が詰め寄っていた。歳神を祀るための祭りの日でも、月に一度の〈マーケット〉の日でないにもかかわらずである。洗いざらしかのように青い空のトロム広場には、鉄と汗の香りが充ち満ちていた。
そして、数千人が埋め尽くさんとする、その広場には、それだけの人数がありながら、誰一人としてその静寂を破るものはなかった。広場は静まり返っていた。白銀の穂先を頂点に差し掛からんとする太陽にさらしながら、誰一人として身動きひとつとらず、等しく頂いた兜の減りからは、汗が筋を作りながら、一律に凛と、一方向を見つめていた。
彼ら、数千の男たちの視線を浴びるのは、そのうちの誰よりも強いまなざしをした少年……王太子、リーフであった。
リーフは一瞬、その華奢な肩を小さく震わせると、一歩前へ進んだ。小さく息を吸う声が、広場の静寂を打ち破る最初の音となった。
「……われらイスリアは、この大陸で国有軍をもった最初の国だ。それ以前の大陸では外人部隊やならず者崩れの傭兵たちを雇って、戦争の代理人としていた。だが、戦争のたびにわれらが母国イスリアの美しき土地は、そうした外つ者たちによって荒らされてきた。たとえ、雇い主がイスリアの、国王だったとしてもだ……」
リーフは一瞬言葉を止め、広場を埋める熱気の塊のような男たちを見回した。旧きイスリアの、若き戦士たちを。
「それを憂慮した時の国王が立ち上げたものが純イスリア人による、騎馬隊。諸君の前身となる、イスリア国最初の軍兵だ。君たちは、その由緒ある、尊き系譜の、新たなる時代を築く兵士たちだ! そして、その系譜に連なるものたちは、歴史上、このイスリアの危機を何度も救ってきた! そして今まさに、この国と、王室は危機に瀕している……!」
リーフは再び強い光のこもった目で兵士たちを睥睨すると、傍らに立つ友人に対し、強く頷いた。同じく頷きを返すのは、リーフと同じ程度の年頃だが、それよりややたくましいからだをしたローレルと、長年彼に付き従い、そして常に彼を裏切り続けた悔恨を抱えるカトレアである。
「ついに、この国史上初の大逆罪が先日陛下によって下された! 国賊は『ギルド連盟』評議員が一人、オルギオーデ……!! この国の正義の守護者たちよ……! 今こそ、国王陛下と歴史に叛くものに、君たちの、正しき怒りをぶつけて欲しい!」
「……大演説ですね」
「ふむ……しかし、よくあれだけの兵士を王が許可したな。広場に人っ子ひとりおらんぞ」
「というよりも、王の差し金でこれだけの人数になったとみるべきでしょうね。最近はどの国の王室も金欠ですし」
そんな、リーフと、そのリーフの言葉によって興奮に沸く広場を見下ろしながら、二体のぬいぐるみはあざけるような視線を送っていた。
そして……
「王と歴史に叛くものね……一体、どちらが歴史に叛いているというのかしら……」
同じく、炎天のもとでありながら、紗であまれた緩やかなドレスをまとう女が、銀の仮面の眼窩を持って〈中央通り〉へと行進を始めた兵隊たちを睥睨していた。
「……それで、〈コカトリス〉直下の使い魔であるあなたたちが、秘密裏に私をこんなところへ呼び出すということは……」
夜色の衣に幾重にも重なった紗が、妖しい光沢を彩る。冴え渡るほどの陽の日ありの中にあって、パピヨンマスクの月を頂いたその女こそは底抜けに夜であった。〈ウンディーネ〉は底しれぬ漆黒の衣を揺らしながら一角獣に問うた。
「ご明察。さすがはなき侯爵閣下のご息女だ……」
対する一角獣も縫い付けられたときから変わらぬ微笑を浮かべたまま、〈ウンディーネ〉に応じた。それを補うように獅子も銅鑼のようにくぐもった声を上げるが・
「何、頼みというのもたいしたことではない。あの集団を先回りして、そして……――」
みなまで言わせることなく、女は、二体のぬいぐるみの前から姿を消していた。