囚われの巫女
時は深夜、ウリムの北にある今やヒトには省みられることのない、荒れ果てた区画、その今や浮浪者と狐狸のほか住むものの無い場所、そこに本来ならば居るはずのない少女が目を覚ました。
「……ッ!? ここは……?!」
少女は僅かに鉄格子から漏れ入る月明かりを唯一の光源に辺りを見渡した。己の予期せぬ境遇に少女は否応なしにまどろみの中から引きずりだされる。見開かれた目の奥に翡翠の如く瞳が煌く。
その少女の急な動きにこの不潔な牢獄の先客たる虫どもが小さな金切り声を上げて四隅へと逃げ込んだ。月は天蓋高くにあり、少女の怯えた横顔を慰めるように濡らす。
「カリファの巫女君よ、お目覚めですかな……?」
すると、先ほどまでなにもない虚空だと思っていた暗闇の先からしわがれた声が響いた。僅かにその声が反響する空間は広くないのだと、カリファの巫女……リィエンは察した。
「……貴方は何者です……! わたしを攫って……いったい、何が目的なのですか!!」
先だって感じていた恐怖はリィエンの中で怒りへと転じた。降り注ぐ月光がリィエンの目に浮かんだ涙を詳らかにする。しかしリィエン自身は己が泣いていることに気がつかない。我を忘れるほどの怒りと、それに埋もれた恐怖だけが彼女を支配していた。
「……余り大きな声を出さないで頂きたい……わたしのかわいい虫たちに食い殺されたくなければね……」
その言葉に思わずリィえんはぐるりを仰ぎ見た。薄暗がりの四隅には自然に生まれたものにはありえないであろう。紅の炯炯とした目が彼女を監視するように見張っていた。時々、リィエンの周囲を徘徊するように薄気味悪い音が立つことに、泥土の中を歩むような不快感が襲った。
「……あなたが大人しくしていれば、彼等はなにもしたりしない……今夜はもう遅いのです……また日が昇れば……」
暗闇の向こうの声はそれだけを言い残すと幽かな足音を立てて遠のいていった。
暗闇の先、一人のこされたリィエンは膝を抱えた。気がつけば地面は、土がむき出しになりそこから体温が奪われていくのだ。
「……あの手紙……リカステ先生が預かったというあの手紙が……そもそも罠だった……?」
リィエンは無意識に震える体を掻き抱いた。時期は夏。夜の冷気はあれど、この震えは寒さのためばかりではなかった。恐怖も怒りも去った彼女の心を、今や孤独が支配していた。虚無的な絶望感が彼女の心を塞いでいた。
「……あれは……たしかに『ギルド連盟』の商隊だった……もしも、ここを出ることができれば、殿下にお伝えできる……!」
しかし、リィエンは再び顔を上げた。小さな鉄格子のはまった窓から注ぐ光りはそんな彼女の決意を秘めた翡翠の瞳を照らしていた。
リィエンの孤独と絶望に再び灯りを灯した希望は、この学術都市にきてから恵まれた学友たちの存在であった。
初めて会ったときに自分を助け、『学院』まで届け、そして人生で初めて友と呼べる存在たちのことだった。ローレルやリーフは大聖堂でともに過ごした克己的な僧兵たちを思わせ親近感を持っていた。同性のオリーブは不器用ながら自分を気遣ってくれていることがわかりその優しさをうれしくも思った。グレイプとラークとはまるで本当の兄のように思える瞬間があった。
たった1週間の出会いは彼女の心に強い光りを灯していた。そして……
「ケールくん……――また、助けてくれるよね……?」
リィエンは誰にともなく呟いた。その時の彼女は儚いながらも確かに笑みを浮かべていた。10年前の思い出が、彼女の胸に確固たる熱を与えている。
いつか、自分を助けてくれた鳶色の瞳をもつ少年の、思い出と今が……
その時、希望を取り戻したリィエンのそばに、二つの小さな赤い光りが近寄ってきていた。それが先ほどの虫の一匹の眼光だと悟るとリィエンは思わず身を硬くするが、しかしその虫は、まるで彼女を気遣い、宥めるようにおずおずと、ゆっくり近づいてくるのであった。
「……もしかして……言葉がわかるの?」
きぃ、という歪んだ蝶番のような音が返答として与えられた。その虫の返事にリィエンは再び小さな笑みを浮かべた。
「……わたしの話し相手になってもらえませんか……?」
半ば冗談で言われたのだろう、リィエンのその言葉に答えるように、虫はゆっくりと月明かりの元へと近づいてきた。そして……
その虫の全貌がわかるとリィエンは大きく見開き声にならない悲鳴を上げた。口は確かに開いているのに、僅かに空気が漏れるだけでそれは声にならなかった。そして、リィエンは気を失い、土の床へと横たわってしまった。
月明かりが詳らかにした虫の姿は、小さな若い青年の顔を持ち、ムカデの足を蠢かす異形の者であった。
よう、昨日の夜はなかなか寝付けなかったケールだ。今日はいよいよ帰ってきたレオンとリコルから〈マンティコア〉の報告を聞く日……なのだが……
「はぁーーーっ!? なんもわかんないだとぉ!?」
朝っぱらから大声を出してしまった。あーあ、今まどの外の木からすずめの集団が飛び出してしまった。わるいなぁ、朝の団欒を邪魔しちゃって……
「う……うむ。我輩たちも手を尽くしたのだが……」
「〈クリュプタ〉がウリムの旧市街地を拠点にしているということしか……」
まったく、この二週間ずっと出かけておいて報告がそれか! まったくがっかりだ!
「……ところで、これは別件なのですが……〈マーラ〉からまた手紙が……」
と、内心のがっかりが隠し切れない俺に対してリコルが一通の手紙を渡してくれた。いつか見た葡萄色の紙に〈マーラ〉の印章。どうやら間違いないらしい。
「はぁ……きょうはリカステ先生の近代史のテストがあるから、あんまり気分をさげるようなもの読みたくないんだけどなぁ……」
そうはいいつつも、仮にも俺は組織の長だ。読まないわけには行かない。というわけでいやいや封をきると、たった一枚の上等な紙に書かれたメッセージがあるのみだった。
しかし……
俺は、その短い内容を読みおわると、思わずその小さなメモ用紙を落としてしまっていた。
「……このままじゃ……!」
「おい! ご主人! 一体どうしたのだ……!」
「……レオン……貴方も読んで見なさい……あの下衆の手紙を」
いつの間にかリコルは俺の落とした手紙を読んでいたのだろう。険しい声でレオンに命じているのが聞こえる。しかしそんな第一の僕の声さえ俺には遠くに聞こえた。まるでその内容は俺の頭には入ってこなかった。
「……っな……!?『クリュプタ』が……カリファの巫女を……攫っただと!?」
このままじゃ……また俺のせいで、俺の友達が……死ぬ――
「……さぁて、一体あの手紙で〈コカトリス〉がどう動くか……見ものですねぇ、〈ウンディーネ〉、〈マンティコア〉……」
ウリムの中央通り、その行き着く先たるトロム広場の一角、『ギルド連盟』に加入するそれぞれとギルドの親方たちが会合を行う館がある。
ウリムの中でも古くからあるその建物の最奥、その『ギルド連盟』の本部ともいえる大会議室に、一人の男の姿があった。最上座、即ちこの館の長がための座、そこに大きな腹を抱えた男が座っていた。
『ギルド連盟』の事実上の長にして大陸経済のフィクサーまで上り詰めた男が……その肉の付いた指に、蛇の下半身に男の体――マーラ――の印章を埋もれさせて……