魔なる獣
あれから結局王子殿下は怒ったままカトレアと一緒に領主様のお屋敷に帰ってしまい、それっきりだった。それで、あくる日の昼間、オレはもうカトレアも居ないかも知れないと内心ちょっとした喪失感を抱きながら、週に一度の木刀を素振りする日だったのでまたあの山の開けた場所へ向かっていた。
……すると、そこには――
「っ! 王子殿下!?」
なんと、一昨日オレとカトレアがベンチ代わりに使っていた倒木に昨日オレが泣かせてしまった男の子が座っていた。
「おそい」
と、殿下はオレのほうをちょっと睨みつけながら頬を膨らませた。
「あ、えっと、申し訳ありません……」
オレはまさかそこに居るとは思わない雲上人の登場に面食らってしまった。殿下はそんなオレの様子がお気に召さなかったらしくますますほっぺを膨らませた。りすみたいだ。
「ふつうにしゃべって! りーふ今はおうじ様じゃないもん」
と、ますます気運高く叫ばれてしまった。うーん、たぶん、本来ならこんなふうに言われても普通にしゃべるなんてありえないんだろうが……今は、それを見咎めるような人も居ないし、今の王子殿下……リーフの様子を見る限りじゃ話は進みそうにないよなぁ。
よし、ここは思い切るしかないか。
「わかったよ……リーフ、って、呼んでいいのか?」
まぁ実は元々敬語なんて前世のときから苦手だし、オレがローレルとして生まれ変わってから両親から学んだ語彙もそんなに多くはないからなぁ、ぼろが出る前にお許しがでて正直助かるな。
と、今度のオレの答えは満足のいくものだったらしく、さっきまでへの字に曲がっていた唇も子供らしい柔らかさを取り戻したようだった。
「うん! りーふはりーふだよ、ローレルくん」
「いや、オレこそただのローレルなんだし、くんなんかつけなくていいよ」
オレはリーフに対して苦笑を隠せなかった。というのもリーフのつけた“くん”はいわば貴族の子弟が使うような上流階級の言葉だったはずだからだ。
「オレはそんなたいした身分じゃないよ……ところで、カトレアは、来てないのか?」
まさかいくらなんでもオレと同い年くらいの子供が此処まで一人でやってくることは無いだろう。だが、それにしてもこんな所で一人しておいておくのも変な気がする……
「カトレアはね、どこかに行っちゃったの……りーふはここで待っていてくださいしてるの」
と急にしょぼんとした顔つきになって悲しげな声をだすリーフ。もしもカトレアが此処を離れてから時間が経っているのなら、最初にオレへ放った遅いという言葉も納得がいく。
うーん、だとしたらカトレアは一体どこへ行っちゃったんだろう。呼び捨てにされるのが好きだにしても、いくらなんでも王位継承権第一位の王子殿下をほっぽりだすなんてこと、本来ならありえないはずだ。
いや、まてよ? それなら何だってリーフはオート――王都に居ないでこんな所に居るんだ……しかも、まともな従者一人つけないで、それこそありえ……――
「りーふはね、病気なんだって。だからね、おとぉさまにお引越しさせられたの。おーじ様じゃなくて、ただのりーふになってお引越ししたの」
……地方療養、ってやつなのかな? だけど、王子を名乗らないってことは廃嫡されたのか? いや、カトレアはあのとき普通に殿下と言っていたし……
「びょーじゃくなおーじ様はヨワミになるんだって! だからりーふ、お引越しできたんだよ!」
と、今度は一転してにっこりとした明るい声でオレに真実を教えてくれた。
……意味なんかわかってないんだろうな……こんな、底抜けに明るくて……
――理不尽だ……!
オレは、内心にリーフの父、つまりこのイスリア国国王に対して怒りを覚えた。確かに政治的に必要な決定なのかも知れないが、こんな5歳の子供を親元から引き離すだなんて恩マリだと思う。
「な、なぁ、リーフ。この村……というか、王都とこっちとどっちが好きだ」
「りーふはここのほうが好きだよ。おしろはね、怖いもん」
どうやらその言葉はうそではないらしく、リーフはうつむいて、その広いおでこを憂いに染め、眉毛は悲しげな八の字を描いた。ついでに口はとんがっている。かわいい。
「……なあ、じゃあオレと友達にならないか?」
「……おともだち?」
さっきのリーフの言葉からすると、きっとすぐに王都へ帰ることは無いだろう。もしも、リーフがこっちよりも王都のほうが好きだったのなら、その寂しさを埋められるかもしれないというつもりでかんがえたんだが、どうやら逆だったようだ。
それでも……それでも友達になろうといったのは、むしろオレのほうがさびしいと感じていたからかもしれない。
「うん!」
また、アジサイの色彩のように華麗に笑顔に転ずると、リーフは満面の笑みでオレに頷いて見せてくれた。
しかし、その瞬間……――
「――――――――――――――――――――……!」
「ッ! 今のは……!」
「ひめい?」
すぐ近くだ! 声だけだから正しいかわからないがまだ少女のような幼い声だった。麓の村にそんな声を出せる女の子なんて居ない……! 思い当たるのは……!
「カトレア!」
気がついたときはもう、オレの体は倒木をはなれ木々の隙間を縫うように走りだしていた。
……やっぱり……!
この森では何年かに一度伐採箇所を変えて木を切っていくのでさっきまで俺たちが居たような、円形に開かれた場所がいくつかあった。カトレアはそんな場所で見たことも無い生き物を対峙していた。
「もうとっくに獣は南へ行ったはずなのに……!」
オレはもう5年もこの森の近くで暮らしているのに、あんな生き物を見るのは初めてだった。そいつは小さく猫のような見た目をしているが眼はむりやり塗りつぶされたように真っ赤で、そこはかとなく邪悪な気配を漂わせている。
カトレアはそんな小さいが強暴な猫みたいなやつに襲われかけていたのだ。
たとえ猫だとしても、もし人間が本気で襲われれば死ぬことだってあるし、噛まれれば口内の雑菌のせいで取り返しがつかないこともある。
……まさか、あれが……
「まもの……」
って、うわ! オレはまったく思いがけず隣から聞こえた声に飛び上がらんほどに驚いた。なんと、オレの隣にはいつの間にかリーフがちょこんと座って強張った顔つきでカトレアとネコのような獣を見つめていた。
「お、まえ、いつの間に?」
「え? さいしょから一緒にいたよ?」
と、こてんと首をかしげた後に魔術は得意なの! とにっこりされてしまった。どうやら森に慣れているオレについてこられたのも魔術によるものなんだろう。
しっかし……
「どっすかな、アイツ」
オレたちが木陰で見つめる中、魔物はじりじりとカトレアとの距離を縮めていた。まさにネコ科のハンティングの様相だ。
村に人を呼ぶにいくにしても、ここからじゃ走ったって20分はかかる! やるしか、ないな……!
オレは運よく持ってきていた木刀の柄を強く握りなおした。
「リーフ、お前は……」
――ここで待っていろ……
「うん! りーふもたたかうよ!」
と、オレの言葉をみなまで聞かず、豆鉄砲のように飛び出していってしまった。
オレも、その姿を追って飛び出しざるえなかった……
結果的にオレたちはカトレアを助け出すことが出来た。オレの剣とリーフの魔術が良い具合に連携をとることが出来て、魔物はオレが止めを刺したときの嫌な感触とともに、黒い霧のようになって霧散してしまった。
「……もう、リーフ様もローレルくんも、もうこんなに危ないことは止めてください! 今回は追い払えても、相手は獣だったんですよ!」
と、カトレアからお叱りを受けたリーフはすっかりしょげている。目にはいつぞやのように涙をためて、口はとんがっている。
「だって……たすけたかったんだもん……」
そのリーフの声にカトレアも、やれやれといった感じでオレの目を見てきた。
「……リーフ様、たすけていただいたのはとってもうれしく思っています。だけど、もうこんなむちゃなことはしないでくださいね」
「むちゃじゃないもん! ローレルといっしょならなんでもできるもん!」
ええ!? と、オレが抗議する間もなく、リーフは満面の笑みでオレのほうを振り返ってきた。
そこには、まさに信じて疑わないオレへの全幅の信頼があった。
……このとき、オレとリーフは本当の意味で友達になることが出来た。