カトレア
イスリア王国は東、南風が潮の香りを運ぶこともあるその小さな、自然の豊かな国で、ある一人の少年が5歳の誕生日を迎えた。少年の名はローレル。小さな村の中に会って唯一の幼年者であり、その快活さから村人の誰にも慕われる太陽のような少年だった。
「じゃあ父さん、オレまた山のほうへ行ってみるよ」
「あぁ、この時期はけものももっと南へ行っているだろうが気をつけてな」
「わかってるよ! 行ってきまーす」
ローレルは小さな胸を弾ませながら、お気に入りの木刀をもって村の裏にある小さな山へ駆けていった。道すがら村の住人たちに声をかけられては持ち前の影のない笑顔をもって接した。
ローレルにはこの世界へ来る以前の記憶があった。それは理不尽に命を奪われ、神と契約した若者としての記憶だった。彼がこの世界で過ごした5年間は決して短いものではなく、彼の生前の記憶からこの世界のローレルとするのには十分な時間だった。
「うっし、今日も素振りからはじめるか!」
元来体を動かすことを好むローレルは週に一度幼いからだに負担にならない程度に山や木々の間を駆け回っていた。村人の目には児戯に映るその行為もローレルにとっては来るべき邪悪と戦うための立派な鍛錬だった。
冬になりきらない、木枯らし未満の風が梢を鳴らし木々はざわめくが、素振りを続けるローレルの体は火照り、小さな丸い頬は火照り、赤みがさしている。
彼はイスリアの平民の幼児期における死亡率の高さにおいて稀有なまでの健康さを有していた。そして、彼に与えられた第2の生もまた、彼に知性という何にも代えがたい恩恵をかれに与えていたのだった。
「……あれからもう5年か」
ローレルは風を切る木刀をゆっくりと腰へおさめると、淡い群青に縁取られた蒼穹を見上げた。
ローレルはかつて生まれ変わる前に、神々の庭園の中空に浮かぶ、かの邪悪を包括した正立方体を幻視していた。
「オレは……オレに、出来るのかな、本当に。運命を狂わせるようなやつと戦うことが……」
素振りのしていたことで熱を持ったからだを幹の間隙を縫うように風が通り抜けてゆく。程よく体が冷めはじめ、再び木刀の柄を握りなおした、その時だった。
「あら……お客さん?」
凛とした力強い声がローレルの耳に届いた。驚いて声のしたほうを振りむくとそこには12,3歳くらいの可憐な少女が彼を見つめていた。
「ごめんなさいね、邪魔してしまったかしら?」
気品にあふれているが驕りのない親しみやすい口調にローレルは体の緊張を解いた。それは少女が柔和な笑みを浮かべていたことも彼の心に働きかけたかも知れなかった。
「オレは、ローレル。此処のふもとの村に住んでるんだ。えぇっと……君は? 見ない顔だけど……?」
ローレルは目の前の可憐な少女に対して幾分かの困惑を声に滲ませた。というのも、はじめ彼は少女をどこかの貴族……善政を敷くことで評判の領主の娘かと思ったのだが、しかしその服装は良く見ると一般的に使用人の召すものだったからである。
「これは申し訳ありません。わたくしの名はカトレア。とある方にお使えしておりまして、つい最近こちらへ参りました。今は領主様のお屋敷にお世話になっております」
これが、ローレルとカトレアの後々を思えばあまりに奇妙な出会いだった。