瞋恚の猿
あれから1時間、空は徐々に橙色の帯を纏いはじめ、夕の時間へ移りつつあった。
「どうした、ケール。やっぱり、どこか怪我したのか?」
俺は、俺を背負い、俺を気遣う父さんになるべく明るく聞こえるように否をつげた。俺と父さんはあれから割りとすぐに合流することが出来たが、俺の頭は疑問符でいっぱいになっていた。
それは、あの時現れた漆黒の翼と死神を思わせる大鎌をもった巨大なサルのことについてだった。
「〈コカトリス〉様、ご無事ですかぁ?」
そいつは野太い、いやらしいねっとりとした声をしていた。翻る濡れ羽色をした巨大な猛禽類のような翼から胸のむかつくような死と腐敗の臭いがして俺は不意にこみあげてきた嘔吐感に堪えることに必死になってしまったが、そいつは確かに浮薄な笑みを浮かべていた。
真っ暗でそのまま眼窩の向こう側が見えるのではないかと思うほど、何も移していないガラス玉のような虚ろな目をした、巨大な翼あるサルだった。
魚の打ち上げられた海岸のような臭いのするこの巨大なサルの登場によって、俺はもちろん、男たちも驚きに目を見開いていた。いや、それよりも――
こいつ、今俺のことを〈コカトリス〉だと……!?
しかし、2mを越すであろう、文字通り現れたサルは俺の内心の驚悸をよそに再び勝手に口を開きだした。
「リコル様より密命を受けウリムより文字通り飛んで参りました。『バビロン』より生み出された忌むべき命、吾が名をイラと申します」
そいつ……イラはその空っぽな目と表情を俺へむけたまま、最上級の進化の礼をとった。細く鋭い三日月のような鎌の切っ先に俺の驚きと困惑の表情が移ると同時に、その向こう側で3人の男たちが後ずさりしている様子が眼に入った。
それを契機にしたのかわからないが、男たちは不意に俺たちへ背を向けて先ほど俺が破壊した壁の穴へ向かって駆け出した。そう思った瞬間だった。
先ほどまでかび臭さとは無縁の美しく歩道去れた道の見えていたはずの穴はそれがまるで幻だったかのように消えうせてしまっていた。いや、それどころか……
「い、石になってる……!」
男たちはまさに駆け出そうとしたその瞬間の姿のまま、顔に未知の異形なるものの存在への恐怖をはりつけたまま凍りついたように固まってしまっていた。男たちは石像になっていた。
「ンふふゥ……男どもの肉体を構成する物質をすべて石に置換してやりましたよ。まぁ、元に戻したところで死体になるだけでしょうねぇ」
「殺したのか……! いや、それよりも、どうやって! 魔術を使ったらわかるはずなのに!」
「わたくしには魔力そのものがありませんからねぇ。第一物質そのものを魔術に変換して、それを用いましたよぉ」
ッ……!? プリマ、マテリアそのものを魔力に、だと?!
「わたくしの受けた命令は『バビロン』の総統をお護りいたしますこと……〈コカトリス〉様専属の護衛として、影に徹して貴方様をお守りいたします」
漆黒のサル、イラはそれだけを告げると、再びまるで空気へとけ居るような速さで天空へと舞いあがった。一瞬の風斬り音と、真っ黒な羽をのこして。
あのサル、イラが俺のことを〈コカトリス〉と読んでいたし、アイツが『バビロン』の産物……おおかた〈マンティコア〉あたりが俺のあずかり知らぬところで何かを画策したその結果であるのは間違いないだろう。つまりあれは『バビロン』の究極の目的のための一段階なのかも知れない。
……だが、俺の頭を占めているのはそんな些事ばかりではなかった。どうせやつが『バビロン』のことにかかわっているのならばレオンとリコルのどちらかに任せておけばいいまでだ。やつが俺の心を捉えて離さない最大の理由、それは……
第一物質による魔力の創造――
もしも、それが俺にかなうのであれば、俺は無限の力を手にしたも同然となる。
父さんに背負われたまま、俺はそんなことをぼんやりと考えながら、数日後に海の街カリファを後にしたのだった。
次回から別の子の視点になります。