堕天使
その少女は美しい顔立ちをしていた。ふっくらとした桜色の頬はしかし、男たちに囲まれた恐怖のためかすっかり色をなくし幾分か青ざめてすらいた。瞼は柔らかな睫毛に縁取られているが、やはり恐怖のためか、恐ろしげに震え、涙の跡は露の絡まる葦の葉のようになっている。だがそれすらも彼女の美しさを引き立てる要因となった。
少女は俺と同じくらいの年であろう。しかし男におびえ体を小さく縮こまらせていた
「だれかと思ったらがきか」
少女を囲む男は三人いた。どれも痩せこけ、しぐさや体に力はないが、眼ばかりが炯炯と異様に光っている。男たちになかでも一際背が高くやせっぽちな男が俺にふりかえり言った。ぎらぎらと輝く眼で俺を見下ろしている。
「かわいい顔をしている」
最初の背の高い男がぎらぎらした眼のまま俺を見下ろして呟くと、右隣に立っていた、頭にバンダナをまいた、頬骨の峻厳な男が「売れるかな」と呟いた。
どうも良い塩梅ではない。俺は頭こそ二十ウン歳だが体は未だに5歳児のそれである。対してやせて如何にも力のなさそうな男たちであるが、相手は大人、それも男である。まして、発言が実にあやしい。
「先に味見をするのも良いかも知れない」
背の高い痩せぽちのおとこは俺を見たままどうでもいいことのように呟いた。その味見とやらがどういう意味をもっているかわからない俺ではない。しかし、カリファという大国にあってもこうした物騒なはなしはおこるのだと、今さらに背筋にいやな汗が流れる。
「杖を持っている」
「魔術師の子かもしれない」
「なおさら高く売れる」
男たちは取り留めないようなことをぶつぶつと言い合うとついにこちらへ歩を進めてきた。さながら幽鬼のように芯のない歩き方だ。
俺はつい先ほど手に入れたばかりの白銀の杖を握り締めた。杖の大きさは俺よりすこし小さい程度だ。男たちとの距離は50mもない程度だが、仮にも元宮廷魔術師に師事している身だ。これだけの距離があれば、俺の極僅かしかない魔力でも少女をにがすくらいは出来るだろう。
俺は、『|破壊の杖〈ヴァナルガンド〉』を強く石畳に打ちつけた。白銀色の杖先から橙色の火花が鮮やかに散り、同時に俺は軽い虚脱感を覚えた。魔力が杖を媒体に石畳へ吸い込まれたのだ。次の瞬間には――
「ぬ……泥?」
「あるき、にくい」
俺を中心に半径50mはまるで地面が融解したかの如く、沼地になっていた。
俺は確かに巷で魔術師なんていわれるような連中程度の魔力もない。それこそビーカーのそこに僅かに残る液体のようなものだ。しかしそれでも、この世のある事象に関して言えば、アクセス権を持っている。それがこの世を構成する第一の元素『第一物質』だ。
「悪党ども、俺は魔術師じゃあない! 錬金術師だ! 覚えとけ!」
わずかばかりの魔力を殆ど使い切ってしまったことで、軽い頭痛と倦怠感がするなか、俺は力の限り叫んだ。牽制の意味もあるが、何より叫んでおかないとぶっ倒れてしまいそうだからだ。
「あと、そこのお前! 早く逃げろ!」
さらに俺は袋小路の先、ぎりぎり石畳のまま残っている部分にいまもへたりこんでしまっている声を上げた。しかしやはり此処は袋小路……
何とか、いけるか?
俺はさらにヴァナルガンドに力を込めると少女の先にある壁をにらみつけた。これが一般的な壁だというのなら、あの先は別の区画の道か最悪でも誰かの家の中だろう。後者だった場合家主には悪いが人命を優先させてもらおう。
再びヴァナルガンドへ魔力を込める。俺が行っているのは魔術でもなんでもなく、ましてや錬金術のなかでも最初に学ぶようなことだ。故に呪文だとか精霊だとかの高尚なプロセスは一切用いられない。まったく締まらない話だ。
次の瞬間にはレンガと石膏で塗り固められていた壁は音を立て崩れ落ち、このかびくさい道とは正反対の清潔さと光あふれる光景が広がっていた。幸いなことに民家ではなかった。
「早く逃げろ!」
俺が言うか言い終わらないうちに少女は駆け出していた。まるで後ろ髪を引かれることなく一目散に逃げていってしまった。男たちはあいにくなことに泥に足が取られておいかけることは出来なかったらしい。一人は無様に転んでしまっている。
しっかし……これからどうするかな……
顔中泥まみれになった男も含め、3人の男たちは俺に視線を固定してしまっている。魔力はさっきの壁を壊すのですっからかん。まさか援軍も期待は出来ない。冷静になってきた頭に、冷や汗が伝う。
男たちがゆっくりと俺へ足を運んだ、その次の瞬間……!
俺と男たちとの間に、漆黒の翼が舞い降りてきた……