嘆きの風
この岩室の中に居る全員が言葉をなくし、その光景に見入っていた。誰もが予想していなかった景色に俺も思考が停止してしまっていた。
「お忘れでしたか、兄上。確かに、魔術の才は兄上にはかないませんでしたが、錬金術においては私のほうが才に勝っていたことを」
しかし、そんな視線の中心に居るそいつは俺たちの目など気にすることなく、淡々とあし元にうつぶせる師匠に話しかけていた。右肩から生える“異形の腕”を揺らしながら……
「どうですかな。『バビロン』に入ってからは資金も潤沢に成りましたから、つい……――自分の体まで改造してしまいましたよ」
そう。そいつ……〈マンティコア〉のあるはずの無い肩から下には、四本の滑らかな触手がうごめいていた。岩壁全体からからにじみ出る僅かな光に照らされ、そいつは滑らかな光沢を見せ付けていた。タコの足のように自在に動く〈マンティコア〉の新しい腕は、見るものに十分すぎるほどの嫌悪感を与えた。
「……心だけでなく、体まで化け物になったかっ! レイン!」
たまらないとばかり、はき捨てるように叫んだのはその化け物の兄。俺たちの師匠、クラウドだった。〈マンティコア〉に何かされたのだろう転がっている師匠だったが、どうやら目立った傷は無いようだ。俺はそのことに胸をなでおろしたが、しかし……
「そんな膨大な魔力を集めて、一体何をするつもりだ」
語気を強める師匠の言うとおり、〈マンティコア〉の頭上には相変わらず魔力の巨大な塊があった。もはやこの空間の魔力は残らずあの塊の中に吸い上げられてしまったに違いない。
そして、膨れ上がる魔力と同時に複雑になっていく立体魔法円の文様。今では細かい部分は読み取れず、ただ光輝く球体のようにしか思われない。
清浄な空間の魔力を食いつくし、〈マンティコア〉の魔力によって禍々しくも美しく光かがやく完全な球体となった魔法円。あれじゃあ、まるで……
「タマゴ……みたい」
俺と全く同じ感想を持ったのだろう。頭上から赤毛ちゃんの呆けた声が聞こえた。誰もがその魔力で作られた玉から目を離すことができなかった。
「ふふ……タマゴか。言いえて妙だ。兄上、これはタマゴですよ。但し、精霊のね」
右腕の代わりに四本の触手を躍らせる〈マンティコア〉。その顔はどこまでもうれしそうに、どこまでも狂気に染まっていた。だが、聞き捨てならなかったのは〈マンティコア〉の言葉のほうだった。
精霊のタマゴ、だと? ……まさか!
「〈マンティコア〉! 貴様まさか『人工精霊』をッ!」
俺が思い当たると同時に〈ドラゴン〉も声を張り上げた。虹彩が剣呑な紅蓮の光を帯びている。やはりか。〈マンティコア〉は〈四大幹部〉といえども、身に余る行為をしようとしているということだ。
「その通りだよ〈ドラゴン〉。といってもまだ試作の段階なのだがね……」
そういって微笑み触手を揺らす〈マンティコア〉。そしてその瞬間。精霊のタマゴとやらが一際強く輝きを放ちだした。
「目に焼き付けるが良い、兄上。これが私のこの15年の成果だ……
さぁ! 産声をあげろ!『嘆きの風!』」
天を仰ぎ、いまや五本になった異形の腕を課かで|〈マンティコア〉が叫び終えたそのとき。タマゴに亀裂が奔り、そして――
視界は光で埋め尽くされ、暴力的な悲鳴が耳を劈いた。感知されるあらゆるものが暴力だった。とっさに閉じたまぶたには爆発的な光が焼け付き、手でふさいでも鼓膜をふるわせる慟哭は生まれてきた事そのものに対する抗議のようですらあった。そして、光の本流がやみ、草木枯らさんばかりの鬼哭が歔欷に、そしていつしか聞こえなくなって初めて俺は目を開いた。そして、見てしまった。
「……想像以上だ。想像以上に、美しい……どうかな|〈ドラゴン〉君たちの協力のおかげで生み出された、精霊は」
そこに居たのは確かに精霊だった。ただし、何か決定的なものが足りていなかったし、〈ドラゴン〉と契約したハンナにもどこも似ていなかった。そいつはどこまでも黒かったからだ。
タマゴはあれだけ輝いていながら、そいつそのものはどこまでも黒く光をのみ込む暗さを持っていた。形も普通の精霊のようではなく、まるでヘドロのようにどろどろしている。漆黒のコールタールだ。時々気泡が上っては時間をかけてはじけるのが見える。そんな汚泥の腕が二本、冗談のように生えているだけだった。本当にただそれだけの、真っ黒なヘドロの化け物だった。
「……ソレが貴様の玩具第二号か……」
嫌悪感を隠そうともしない〈ドラゴン〉の言葉に気を悪くした素振りも見せない〈マンティコア〉。それどころか、もう一度、漆黒の精霊をいとおしげに見上げた。
「どうですかな、兄上」
変わらない微笑を浮かべながら師匠に問いかける|〈マンティコア〉。しかし、当然師匠の答えは俺たち誰もが共有するものだった。|〈マンティコア〉以外の、全員が。
「化け物めッ!」
誰もが同じことをかんがえていただろう。父さんも、スイカさんも、マルスくんも赤毛ちゃんも、〈ドラゴン〉でさえも。失った右腕のかわりに四本の触手をうごめかし、ヘドロのお化けを美しいという|〈マンティコア〉は、まさに化け物だった。
だが、〈マンティコア〉はそんな師匠の言葉も意に介さなかったようだ。
「……この美しさがわからないとは、兄上も目が腐っているようですな。よろしい。それではお見せしましょう。『嘆きの風』の力の一端を」
〈マンティコア〉の宣言が水を打ったような岩室の中に響き渡った、その瞬間。俺たちは再び膨大な魔力の高まりを感じた。
今度は『嘆きの風』の、人間であれば顔……口に相当する部分からだ――ねっとりとした黒いのっぺらぼうに当然口や眼などありはしない。時々気泡が立つのが精々だ――。
そこに魔法円が形成され、気持ちが悪くなるほどの魔力が集められていく。漆黒の魔力が。
そして、魔法円の限界近くまで魔力が集まったそのとき、声ならぬ声が、厳かに術式の発動を宣言した。
「ぐ! ああぁぁぁぁぁ!!!」
「きゃああぁぁぁ!!!」
ソレは、『嘆きの風』が生まれた時とは比較にならないような、冒涜的なまでの暴風だった。しかも暴風がこの魔術の本質ではない。風が暗黒に染まっている。風に乗せて嘆きが運ばれている。視界と聴覚は闇と嘆きで覆われて、そのほかはもう何も知覚できない。
俺がついに、意識を手放そうとしたそのとき……
胸元にネックレスとしてかけていた指輪が眩い光を放った。と同時にまるで俺の体はシャボン玉のような薄い膜に包まれていた。
「っな……!?」
その柔らかく輝くシャボン玉は、対照的な暗黒の烈風を完全に遮断し、俺を守っていた。薄っぺらな結界の中からのぞく魔術の暴風はどうやら精神を撹乱すし、最後は意識を落とさせる効果があるようだった。
〈コカトリス〉の印象の刻まれた指輪から生じていた光が消えたのと、『嘆きの風』の魔術が終わるのはそれから約5分後……ほぼ同時だった。
岩壁は暴風によって削られ、塵芥となり果てて降りそそいでいた。真っ黒だった視界はお次には煙幕さながらに降り注ぐ埃のせいで真っ白だ。
おいおい、一体何が起きたんだ? この指輪にこんな力があるだなんて俺は聞いていないぞ?
まあ、なにはともあれ、まずは……
「とうちゃ――……」
俺が父さんたちを見つけようと声を出したそのときだった。
「おや……『嘆きの風』の“鬼哭”にも意識を失わないものが居るとは……」
乳白色の霧の中から〈マンティコア〉が姿を現した。当然おれよりもずっと高いその姿はそれだけで威圧感を与える。触手がうねうねと動くさまときたらおしっこちびりかけた。
「……ふむ? なにか特別なまねをしたとも見えないが……?」
〈マンティコア〉の俺を見ているようで、何も見ていない視線が気持ち悪すぎる。そんなことを考えているうちに漸く舞い上がっていた埃は落ち、この『生命の源』のある空間の現状をつまびらかにした。
「まあいい。つれて帰って、解剖すればわかるでしょう」
俺にはもう、〈マンティコア〉の声は聞こえていなかった。そこにはあまりに酷い光景が広がっていた。もう立っているものは俺のほかには〈マンティコア〉しか居ない。だれもが冷たい岩石の上に倒れ臥していた。
父さんも、師匠も、マルス君も……誰もかもが。
だから、〈マンティコア〉から伸びる四本の触手も、俺のほうへ迫ってきているのは見えていても認識することができなかった。そしてついにゆっくりと迫っていた触手が俺の全身に絡みつく。見ただけではわからない、不愉快な粘液で肌がべとべとになる。
もう何もかもがどうでもいい。そんな深いあきらめが今度こそ死を実感させた。
――が。
「〈マンティコア〉。その不遜な手を離しなさい。」
静かな、凛とした声が、聞き覚えのある声が、俺たちしか居ない空間を制した。
この声は……リコル?!
触手で縛られ動きの鈍くなった体を必死によじって声がするほうへ向けると、やはりそこには生まれてから5年間、ほぼ同じときを過ごしたぬいぐるみが2体立っている。幻ではない。
「レオン殿とリコル殿か……一体なに用で?」
訝しげに〈マンティコア〉が聞いている。当然だ俺だって知りたい。レオンはともかく、一体どうしてリコルまでここに?
「……リコルの言葉が聞こえなかったのか、〈マンティコア〉。その薄汚い手をはなせ」
レオンすら、これまでにない怒気を込めて〈マンティコア〉へ命じている。そこで漸く変態おじさんの触手が|(しぶしぶ!)俺から離れていく。
同時に、2体のぬいぐるみが俺の元へ歩み寄ってくる。〈マンティコア〉はどうすることもできないようで、ただその2体の動きを見守っている。当然俺だって想だ。
それは2体のぬいぐるみが俺と〈マンティコア〉の中間へたどり着くまで続いた。先に動いたのはリコルのほうだった。〈マンティコア〉に背をむけたまま、膝をつき、頭を垂れ、俺に臣下の礼をとってきたのだ。
一拍遅れてレオンも俺にその礼をとる。これは、王族以外にすることはないという、最高位の臣下の礼だ。
突然の土下座並みの最高礼に混乱した俺に拍車をかけるように、ライオンと一角獣は同時に(あるはずのない)口を開いた。
「お迎えにあがりました。我等が王……〈コカトリス〉さま」