傷を負いし者
リーフにとってカトレア、リカステの姉妹は姉同然の存在といって過言でもなかった。特に親しくしているのは妹であり、自身の養育係であったカトレアであるが、その姉であるリカステもまたリーフにとって大切な存在に違いはなかった。そのためにかつて彼女たちの出自をふいに知ってしまったときは返って彼女たちの父親を奪った父王へ対し憤りを感じることもあった。長じるにつれ貴族派と王党派のパワーバランス、ひいては王権を強化しイスリアの秩序を盤石のものにするためには良策であったと考えるようになれども、姉妹への罪悪感は絶えてリーフ苛わぬ日はなかった。そのため、此度のオルギオーデの遺品によりかつての政戦の真相をしったリーフの胸中に広がったのは喜びであった。すなわち、カトレア、リカステに対しは彼女たちの父親の汚名を雪ぎ、カトレアらが決して表に出さない感情を安んじることができると無邪気にも信じたためである。もはや真実程度では拭えぬ憎しみが在るなど、夢にも思わず。……
「お姉さま……」
振り向いたリカステは不安そうに揺れる瞳にぶつかった。同時に、長かったと、何ともなくふと考えた。この揺れる瞳が、カトレアの訴えんとすることが手に取るように伝わったためである。すなわち、本当にやるのかと、この瞳は問いかけているのだ。
そう。今に行うのだ。明日にでも、18年まえよりリカステの生きる意味となっていた、復讐が、完結しようとしている。この瞳は、カトレアの不安と恐れに潤み、揺らぐ瞳はリカステにその感を強く与えた。そのためリカステは愛する妹へ対し微笑んだ。今は喜びと時である。そんな表情は不釣り合いなのだと。
「おねがい、カトレア、そんな顔をしないで。ようやく私たちはお父様の無念を晴らせるのよ? イスリアという国に尽くし、国王に忠誠を誓い、裏切られ挙句の果てに逆賊の汚名を着せて断頭台の上に誰と知られるでもなく消えた、あのお父様の……」
しかし、カトレアは応えない。いまだに幼さの抜けない、稜線を欠いたまろびた顔のは青ざめてうつむいている。その上からでもカトレアの瞳がせわしなく動き回っているのをリカステは水生生物の卵が羽化する寸前の動きを思いながら眺めていた。もはやリカステにとって唯一の肉親という言葉では止められないところまで復讐は進んでいた。いあや、初めからそんな言葉では止まりようがないほどの憎悪と狂気とをリカステは抱いていたのだろう。そのことにようやくカトレアが思い至ったに過ぎない。もはや姉は止められない。王子を殺し、王を弑し、王国を亡ぼさない限りは彼女の憎悪は止まらないところまで来ている。
「ねえ、カトレア」
不意に頭上に注いだ温かい声に振り向くより先に、カトレアのあごは、小さな象牙の駒を取り上げるように、リカステのなよやかな指に収まっていた。そのまま頤をもち上げられ、リカステの光を宿さない瞳とかち合う。
「あなたは何もしなくていいの」
何もしなくていい。この言葉を姉が使うのは、カトレアにとって極めて、なにかしたくないことが起こる予兆であると、カトレアはしびれだした頭で茫洋と思い出す。あの時ドラゴンと引き合わせたときも姉はこういったではないか。何もしなくていいと。
カトレアはほんの幾ばくかの抵抗を込めてリカステから首を引こうとするがそれもかなわなかった。彼女の指に収まったあごは指輪の台座と宝石とが強力に結びつくことであたかも初めからそこに、そのように存在していたかに思わせるように、リカステの指とカトレアの小さな象牙の顎とは強く結びついて離れようとしなかった。
そしてカトレアは抵抗をやめた。毒に蝕まれた小動物が毒の回るのを恐れ最小限の動きでとどめるように彼女もまた、脳髄にまわった姉の毒に身を処すように姉の意を宜うように瞼を閉じた。
その時椿の花が訪れた春のためその花の首を落とすように、リカステの指は離れた。