婢と王女
かび臭い牢獄の中にうなだれるように跪くハンナに視線を合わせるように黒衣の女が膝を曲げた。この気品ある声、蓮葉なようで優雅な所作。これこそは彼女がいかに隠そうとも隠し切れなかった、亡父の延いてはその流るる血の深淵たる一族の薫陶であった。
すなわち、国に、王に裏切られたる貴族、かつて貴族派を率いた咎のため、秘密理にその生涯を閉じたサザーランド侯爵の……
そして、何よりハンナはその女の、ウンディーネの隠し切れない、優雅にあまりに見覚えがあった。彼女の親しくする少年に、彼女を慕う王子に、そして、ウンディーネの妹にも。
「リカステ……!」
決して大きな声ではなかった筈のハンナの声は思いのほか地下牢を轟かせた。空気の震えは天井に蟠る汚らしい水滴を彼女たちを隔てる錆びた鉄の棒の間隙を滑るように震え落ちた。
ウンディーネはハンナの呼ばいに応えるように仮面を外した。銀のきらめきが刹那、灯を点じたかと思うと、その極小の光は頬から首へ、首から腰へと仮面とともに、ウンディーネの清浄な雫のように流れいた。
純銀のヴェールの落剝の後現れたのはリカステその人であった。むき出しの岩場に仮面の落下音が反響する。無限に木霊する甲高い響きは返って咽かえるほど沈黙を濃く浮かばせる。
「ご機嫌麗しゅう、王女殿下」
リカステは言葉とは裏腹にすっくと全身を持ち上げながら形式的な挨拶を述べた。その声の抑揚、匂いやかな微笑、紫の花弁の陰にそろぼいた陽の映ずる光のように薄く開かれた瞼……そこにはいるのは使用人などではありえない、まさに、いつ妃に召し出されてもなんら恥ずかしくのない一人の貴婦人。侯爵令嬢その人であった。
しかし、ハンナには以上に見逃せない言葉が耳朶を打った。
「おうじょ、でんか」
それは誰も知らないはずの秘密。いや、彼女さへも心の最奥にしまい込み、なかったことになったはずの、23年前の真実。そして……
「そう。〈ドラゴン〉の妹君にしてフツクエ王国の正統なる後継者の一人。あの戦禍を国民を捨て生き延び、その癖に生存の嘱望されている姫君。もっとも、ウリムの小さなカフェのオーナーでは一国を背負うことなんて、不可能でしょうね」
ハンナ自身も己の出自を思わぬわけではなかった。しかし、それを知って、かつ何かをなすためには彼女はあまりに多くの罪に加担しすぎていた。少なくともハンナ自身はそう考えていた。
「それで、そんなお飾りにもならない庶民をさらってきて『バビロン』は、〈ドラゴン〉はどうするつもりなのかしら」
ゆえにこそ、彼女は強く己を持たなければならなかった。ハンナがハンナ自身であること、ただ生きるのではなくより良く生きること。それがハンナの考える生き延びたものとしての贖罪であった。
それでは足りぬと考える者たちの思惑など、夢にも知らず――
「さぁ、あなたをここに連れてきたのは〈ドラゴン〉だもの。わたしからしたら、あいつの考えていることも、『バビロン』のやろうとしていることも、正直どうだっていいわ」
仄暗闇のうちに、艶然と笑んだリカステの歯の白さが際立つ。ハンナは今更ながら目の前の女が決して自分を見ていないことに気が付いた。その目はハンナを通して何者かを見る、もはや何者お見えていないめであり、ハンナはその目に宿る狂気に触れ慄然とした。
「わたしの成すべき事はたった一つ。お父様の無念を晴らすこと……そのためにこのイスリアを亡ぼすことよ」
「サザーランド侯爵と、国王陛下との間に、密約……?」
グレイプ兄の言葉がこの場の全員を代弁したものだろう。それほどまでにその言葉はありえべからざることだからだ。
サザーランド侯爵といえば、かつて貴族派を率いた急先鋒として知られる人物であるが、20数年前、派閥内の有力貴族を巻き沿いに処刑されたはずだ。そのため現在の貴族派たちはイデオロギーも旗印もなくした烏合の衆という見方が強い。金も権力も二流の貴族らのできることなど精々『バビロン』を介した嫌がらせくらいのものだった。しかも、それらも反王党派というだけの個人単位の嫌がらせに過ぎない。
もはや彼らの出資元であった『ギルド連盟』の頭が親国王に傾いている以上、王党派、ひいては国王の権力も盤石になったといえるだろう。あとはどう反発を防ぎながら貴族たちの権益をそぎ、中央集権を固めていくかだが、そんなことはおれのあずかり知った話ではない。バランス感覚の必要な政治ゲームなどは政治家にやらせればいいのだ。
政治ゲーム……なるほど。
「話が見えてきたな」
俺の心中と時同じくして口火を切ったのはスイカさんだ。さすがは国家の兵士にして宮廷魔導士の弟子だ。おれなみに頭の回転早いね!
スイカさんの言葉にリーフが首肯を返す気配がする。
「国王陛下とサザーランド侯爵閣下は幼いころから乳兄弟として知られていた。二人は比翼連理の盟友だとな。だからこそ、侯爵の裏切りは貴族たちに波紋を呼び、真実味は否応なしに増していった」
膨れ上がった貴族派にとっては王への不満を受け止める緩衝材が必要だった。それこそが貴族派の旗印となり、王を斃すことで、自分たちにとって都合のいい未来をつくってくれるもの。かつて貴族派という一大勢力を生み出した公爵であり、その後を継いで彼らを率いたサザーランド侯爵だった。
それが王に近く、王の信頼を得ているものならばなおさらであっただろう。その末がまさか〈貴族派〉の弱体化だったとは、ずいぶんな結果だが。つまり、彼ら〈貴族派〉は巻き込まれたのだ。王権のより盤石なものにするための、サザーランド侯爵と国王の仕組んだ、政治ゲームに。
「そして、〈貴族派〉たちの有力者たちはサザーランド侯爵が身を挺して道ずれにしたと、そういうことでしょうか、殿下」
スイカさんの言が部屋の中にいる全員――梁の上に横たわっているおれも含めて――に真実として扱われているのが感じられる。しかし、その証拠になっているのが、表向き国家初の大逆罪を言い渡されたオルギオーデの残した文章というのはなかなか弱いよな。
それに、だからどうというわけでもないし。
「ええ、ぼくは少なくともそう考えています。とは言ってもあくまで証拠はこのオルギオーデの日記のみなので、父に事実確認をとってみたいと思います」
「国王陛下に? しかし、何のために? もはや『バビロン』の経済的な影響力はそいだといってもいいでしょうから〈貴族派〉もこれまで以上のことはできないのでは?」
と問うのは父伯爵が貴族派であることで有名なメリルちゃん。たしかに、わざわざその裏どりをする必要はないように思われる。
「……このときの事件で、傷を負ってしまった人に、心当たりがあるので」
そう、なんとなしにつぶやかれたリーフの声は心なしか沈んでいるようだった。