聞き覚えのある声
ハンナは何者かが近づいて来る音で目を覚ました。目が覚めると同時に、むせ返るようなかび臭さが鼻孔を覆った。どうやら自分の神経は自分が思っている以上に太いことを知り、ハンナは自嘲気な笑みを浮かべたとき、足音の主が姿を現した。
ハンナの目に最初に映ったのは黒の繻子で編まれた靴であった。貴族の履くような靴をこんな薄汚い牢獄で履くとは、どういうつもりなのだろうと、ハンナは眉を寄せた。そんな上等な靴から美しい脚がまっすぐ伸びて、また黒のドレスの内に飲み込まれていた。青い血管の浮かぶ脚は白く、百日紅のように滑らかで或ることが一目見てわかる。働くだけの女にしては美しすぎ、働くことの無い女にしては筋肉質な、不思議な脚だった。
ドレスは来訪者の肉体を遍く覆い、服を着ない以上に淫らに女であることを際立たせる仕立てのされたものだった。見るものに対し無礼な程女を押し付け、しかし、決して触れられないと思わせるほど、気品に満ちていた。
ハンナは、来訪者の女の、ドレスの下に蠢く肉体を夢想し、思わず赤面した。物心のついたときにはすでに旅ごろもを纏っていたハンナにとって両者とも関わり深く、同時に持ち得ないものだった。ましてやそれを同時に所有しうることなど慮外のことであった。
来訪者は漆黒の紅の塗られた唇を優雅に歪ませた。このとき初めてハンナは、来訪者が仮面を身につけていることに気がついた。その仮面も、おおよそこんな、薄汚い場所には不釣合いなはずの、華麗な装飾の施された蝶の仮面だった。鏡のように周囲の闇を飲み込んで輝く銀の仮面が、ハンナを見下ろしていた。
「ご機嫌麗しゅう? 王女殿下」
ハンナは仮面の女の言っていることを理解するより先に怒りを覚えた。
「ご機嫌って……そうね、こんな薄汚れてかび臭い牢屋に入れられてなかったらもう少しいい目覚めだったと思うわ」
ハンナが今出来うる最大の余裕をもって笑顔を浮かべ皮肉を言ったとき、彼女はすでに達成感で女の言葉の意味について考えることをやめていた。王女という言葉も女の発した皮肉程度にしか思わなかったのだ。
来訪者たる女は、そのハンナの心理を目ざとく見咎めたようであった。にっこりとしかし冷たく浮かべられた微笑は引っ込められ、代わりに呆れたように、哀れむように女は口を窄めた。そうした何の気の無い仕草でさえ、高貴なものたちが互いに密約を交わすときの、サインのような、高貴さと、淫靡さと、秘密の香りがあった。
「あなた、なぁんにも知らないのね」
女は急に口調を崩し、蓮っ葉な口を利きだした。しかし、それとはまったく別の理由でハンナは目を見開いた。ハンナは気がついてしまったのだ。その声に、しゃべり方に、気品と淫らさの同居するその所作に、見覚えのあることに。
「そんな……あんた、まさか……――」