過ぐる者たち4
夜の帳は遍く地平に下りたが、同時におとなうはずであった静寂と安寧はケトケイの都には現れなかった。
街は、燃えていた。あらゆる憎悪が戦火にくべられ、レンガ造りの街は、それを生み出した業火のなかへ、再び還りつつあった。無数の爆竹が爆ぜたような音がどこからも聞こえた。壁はレンガであるが家具は木造である。あれは、人びとの生活が死ぬ音なのだとオークは思った。翻って炎は静寂であった。もはや聞こえてしかるべき悲鳴は絶えて聞かれない。生き残ったものはとうに逃げ出し、出遅れたものはこの街と共に灰になるだろう。その時オークが思い浮かべたのは羨望である。死に行くものへの羨望、開放されたものへの羨望……
暗い虚ろな目でオークがたどりついたのは大聖堂前の広場であった。此処こそ、オークが、今、の背負う、気を失った少女と出会った場所であった。本来であれば、寂寞とした月明かりだけが照らす夜にあって、大聖堂は煌々としていた。レンガの街にありながら唯一象牙の塔と呼ばれた大聖堂は逆巻く煙につつまれていた。金砂子がばら撒かれた夜空へ炎は舐めるように金色の舌をのばした。暗中に立つ柱のような煙のうちから、時折炎はその目をのぞかせた。焼ける匂いがした。それは肉が焦げる匂いに相違なかった。
カテン兵が現れたのは王宮だけではなかったのだ。街を覆うように現れた彼らは、やはり鬨の声を上げて王女の誕宸日にかこつけ酔いどれた町人たちを襲ったのだ。弱く抵抗できない彼らは集うほか無かっただろう。それは町人たちの精神的支柱でなければならなかったはずだ。
大勢の弱者はここに集い、そして待ったことだろう。王宮から現れる、この突然やってきた邪悪を打ち払い、自分たちを助けるための使者を!
しかし、投げ込まれたのは炎だったのだ。そこまで考えたオークは不意にひざが崩れ落ちるのをまるで己の体で無いように感じた。黄金色の焔のなかでおぼめく大聖堂を前にして、彼は吐いた。
跪いたとき、オークは初めて自分の腕をみた。体重を支えるため節くれだった腕は、火ぶくれと切り傷のために血に汚れていた。焔に焼かれたシャツは、彼のしなやかな体を露にさせたが、そこにも忌まわしい火傷のため赤く爛れていた。
その時オークの心に訪れたのは強烈な死への願望だった。先ほどまで避けていたはずの炎が急に慕わしく感じられ、多くの無辜の民を焼いた大聖堂こそ死に場所にふさわしく思われた。少年らしい快活さはすでに失われ、その心は死を希求することがやまなかった。オークがついに誘われるまま両の手に力をこめたとき、彼女は目を覚ました。
「……オーク……?」
亡びを前にしたメープルは美しかった。雪原が朝日のため紅に染まるように、真珠が角度によって七色に煌くように、メープルの肌は際立って美しかった。式典のための白絹のドレスはすでに見る影も無くなり、血と煤に穢れていたが、しかし尚、メープルの美しさを損ねることは無かった。
大聖堂を包む炎がメープルの瞼に宿り金色の微光の滴る睫はその光の重さにわなないていた。
「メープル……」
オークの言葉は虚空に飲み込まれた。今、オークにとって目の前の美しい少女こそ、命その物だった。たとえ人は地獄を目前にしても、命の夢を見るらしかった。次にオークの口からすべりでた言葉は、オーク自身が予想せぬ言葉であった。
木々の爆ぜる音は猶繁く、人の焼ける匂いは止まらなかった。ただ寂寞とした死の世界のふちに、オークは命を見出していた。
「南へ……イスリアへ行こう」
炎の熱は幸いに彼らを包むように暖めた。オークの心中には未だ死への願望がわだかまっていたが、今は唯この生命そのものである少女を殺してはならないという一心がオークを支配していた。
メープルのみせた逡巡は一瞬であった。メープルは意識を失っている間にオークの運んだ道を振り返った。オークもそれに習った。いつの間にか王宮にも火が放たれたようだった。炎の起こす気流のため塔の旗ははためいていた。次期にケトケイを象徴するあの旗も炎に飲み込まれるだろう。
メープルは頷いた。
それからの事を二人は決して思い出さなかった。フツクエにより陸路は完全に封鎖されていたため、二人は海を頼り越境した。小さな舟は岩礁にぶちあたり、粉々に砕けたところを助けたのはイスリアの商人であった。
商人はウリムに商館を持つ豪商であったが決して驕ることなくまめに世話を焼いた。
二人はそこで始めてカテンとケトケイの国境にたるラルカーン野で大規模な軍事衝突があったこと、イスリアの王族や騎士も参戦したこと、そして、あれからすでに一月が経っていることを知った。オークの中でその一ヶ月の記憶は全く剥落してしまっていた。
「この船はカリファで停泊するから君たちもそこで降りるといい。ただ、もしイスリアを目指すならば、王都へ行くのはやめたほうがいいだろうな」
「何故ですか?」
「先の戦役で王族の多くが戦死されて、公爵閣下は一息に王座が近づいたもんだから欲が出たんだろうね。今じゃ上は真っ二つだよ。現状じゃあ陛下のお側にはサザラーンド侯爵が御付だが、この分じゃどうなるか分からないね。その点ウリムならまだ安全だろうね」
「ウリム……ですか?」
ケトケイ出身であり、貴族の娘として外の世界に触れてこなかったメープルにとってはじめて聞く名の街であった。
「イスリアの第二の首都って言われてる学術都市さ。元々が『大聖堂』『学院』『ギルド連盟』の三頭政治状態だからお上のごたごたは入る余地は無いだろうね。その点で言えば王都に比べれば政治的には安定しているさ」
ただ、と商人は潮騒にかき消されない程度の小声で続けた。
「やはり先の戦役で財を成した人が居てね……わたしの上司に当たる人なんだが、その人には気をつけたほうがいい。あまり大きい声では言えないが、お金儲けのことしか考えていないくせに、お金が欲しいわけじゃないのさ。もう、手段が目的になってしまっていてね。とてもじゃないが、あんな虚ろな人は見たことが無いよ」
船は商人の言葉通り、カリファに到着した。時刻はちょうど西の海に金色の日が沈まんとする折であった。港は船乗りの喧騒と、潮の香り、そして潮騒に満ちていた。日は、世界を遍く茜色に染め、海は天上の光を忠実に再現していた。一日の光を燃やし尽くした太陽はその没する寸前に最も協力な閃光を発するのだ。その暗い光は没する自身への鎮魂であり、これより訪なる夜への賛美であり、そして地上と冥界全てのものへの慰めでもあった。
オークは生涯これほど美しい黄昏は見ることは無いだろうと感じた。この一月の間に初めて訪れた慰謝はそれほどまでに彼を癒した。
「こうまで日が沈んでは君たちも動けないだろう。かといって今日は巫女舞の日だから早々宿は取れないだろうし……」
オークが心に刻み付けている日没は、或る人からすればそれは単なる一日の終わりの指標にすぎないのかもしれない。商人はそのくらがりゆく世界の中で腕を組んだ。オークはこのお人好しの過ぎる商人に感謝しながらも、日が完全に沈みきるまで目を離す気にはなれなかった。
「旦那、あそこならいいんじゃないですか? あの偏屈じいさんなら祭りへ行くことも無いでしょうし」
援け舟は船乗りから渡された。その一言で合点のいった商人は眉を寄せたが、二三の問答の末船乗りに納得させられたらしく、ついに二人に向かい合った。
夕日は完全に沈み、鉛色に変じた海に幽かな微光を名残とするばかりであった。
「おほん。わたしはあまりお勧めしたくないのだがね……まぁ、おそらく君たちの安全な寝泊りを保障できる唯一の建物だ。今からこの男に案内させよう。わたしの意志でないことは分かって欲しい」
慎重に、かつ嫌そうに言う商人に対し、案内を言付かった男は朗らかだった。それこそ、商人に提案したあの船乗りだった。
「旦那はこういうけどよお、なぁに、ちょっと頑固なオヤジがいるだけでよお、まあ、いざとなったら逃げ出したっておってこねぇでな」
安心してくれ、と笑う船乗りに、オークは頷いた。
男の案内したのは、大通りから外れたところにあるこぢんまりとした建物であった。日中であっても陽のさすことはないだろうかび臭い路地に、ついにオークは不安を覚えた。時折壁や足元をねずみが這う気配を覚えるごとにオークの背筋は凍った。対するメープルは聊かの不安も感じていないようであった。むしろ、大通りから聞こえる祭りの喧騒を楽しんでいるかのようだった。
「おーい、爺さん生きてるかぁー?」
男は一見商店のようにも見えるその建物をかなり力強くたたいた。軒に積もった埃が震え、木の扉は軋んでいる。今にも蝶番がとれそうな佇まいに、オークはメープルを連れて逃げ出そうとも考え始めていた。
そして、何度目かのノックの末扉は開かれた。現れたのは老人であった、古臭い魔道師の服を着、顔に憤怒を浮かべた以外は、普通の。
「こんな時間にッ! なにものだぁぁぁ!」
「っひ!」
オークは耳朶を打つその悲鳴が自身の発した声であることに気がつくと赤面した。メープルは慈しむようにオークの鳶色の髪をなぜると、貴族らしい、流麗な礼をした。
「夜分遅くに――」
「御託は聞いておらん! なにものだと聞いておるんじゃ!」
「おいおい、じいさん、こんな時間って、まだ宵の口だぜ? 何だってそんなぴりぴりしてんだよ」
船乗りの男は怒鳴られたメープルをその背に庇うように老人を諭した。
「宵の口だと……? ばかな、もう陽が沈んでだいぶ経つはずだぞ」
怒りは和らいだが、それでも深く刻まれたシワはいかめしく、老人は空を睨んだ。しかし、東には未だ群青色の昼間の残滓があり、星星は西からようやく顔を出し始めた刻限であった老人の見たままが男の言葉を証明していた。
対する船乗りは、呆れを隠せぬ風に老人を見た。
「おいおい、また徹夜で研究かよ。孫が泣くぜ? それはそうと、こいつらを泊めてやってくれや、イスリアへ行きたいらしいんだが、宿はどこもいっぱいだからな、じゃ、頼んだぜ!」
それだけを言い終えると、男は急に踵を返しほとんど逃げ出すように駆け出した。跡に残されたのは老人と少年、少女だけであった。
カリファの日は沈んだばかりであった。
過去編は次で最後の……はず、デス