ハンコ屋の女主人
多くの学生が行き交うキャンパスの正門を抜けて表通りに出る二人の学生、東啓太と一乗谷弘法。
7月の初め、梅雨も明けきらない蒸し蒸しとした午後の通りを汗を拭きながら駅に向かって歩いている。
「啓太、内定貰ったんだってな。 おめでとう」
「サンキュー。 弘法は実家の寺を継ぐんだろ。 なんでも四国じゃ指折りの有名なお寺だそうじゃん」
「卒業したら、すぐ御山で2年間の修行さ……酒も女も、何もかも絶って厳しい修行に日々明け暮れるんだ……ああ、イヤだイヤだ。 他の宗派の中には、酒はOK、オンナもOKっていう酒池肉林の素晴らしいトコだってあるんだぜ。 ウチもあんな宗派なんか止めて、何でもアリの甘々な宗派に鞍替えすりゃいいんだ……そうだ、今度帰ったら親父に相談してみようっと」
「そう言うなよ。 俺だって第一志望の会社じゃないんだ。 世の中我慢さ。 我慢して、我慢して、そうこうしてるうちにきっといつか良いことがあるんだ……そんな風に考えないとやっていけないよ……人生なんて」
「なんか達観してるな……啓太の方が僧侶に向いてるんじゃね?」
「弘法みたいな煩悩の塊は僧侶には向いてねえかもな。 まあ、せいぜい修行に励んで一日でも早く解脱することだな、ハハハ」
「なんかオレ、途中でリタイヤしそう……」
「ああ、そうだった。 俺、用があるからここで失礼するわ」
「おい、ちょっと待てよ。 なんだよ。 まさか……」
「じゃあな。 明後日のコンパの件は今日の夜にでもメールするから……」
「汚ねえよ、自分だけ……」
「だから明後日コンパしてやるって言ってんじゃん……我慢も修行だよ、ハハハ」
いつまでも文句を言っている弘法を尻目に、啓太は彼女との待ち合わせ場所に向かう。 駅前の通りから一本入った裏通り、小さな店が軒を連ねる昔からの商店街の中程に生ジュースがメチャクチャ美味しい喫茶店がある。 彼女から教えてもらったその店がいたく気に入った啓太は、待ち合わせの際には必ずその店を利用することにしていた。 こじんまりとした佇まい、古めかしい木のドアを開けるといつもの場所に座っていた彼女が啓太に気付き遠慮がちに手を振る。
「ゴメン。 待った?」
「いま来たばっかり……注文もまだなの」
「ママ、グレープフルーツジュース、ふたつね」
「はあい」
啓太の彼女、中山美羽は三つ年下の19歳、同じ大学の1年生。 大学のそばにあるコンビニでアルバイトをしていた美羽にひとめ惚れした啓太が毎日しつこく通い詰め、とうとうひと月前に口説き落としたばかりなのだ。 今どき珍しいロングの黒髪、色白の美しい顔立ちとモデル顔負けのスタイル、控えめで優しい性格、いま啓太は間違いなく幸せの絶頂にいる。
「明後日のコンパの件だけどさ、友達ですっごい期待してる奴がいるんだよ」
「大丈夫よ。 いい子に頼んであるんだから」
「そいつってカノジョいない歴何十年って言う強者なんだよ。 だから、そんな綺麗な女子じゃなくても良いからさ、その……なんていうのかな……オトコに飢えてるって言うのか……肉食系って言うのか、望めばすぐデキちゃうみたいな……そんな女子の方が有難いんだけど……」
「失礼ね、友達にそんな子はいないわ」
「ああ、ごめん。 そうだよね……」
余計な気遣いで美羽を怒らせてしまった友達想いの啓太。 黙ってストローを咥える美羽。 しらっとした雰囲気が二人を包む。
「なにケンカしてんの、二人とも」
見かねた喫茶店のママが割って入る。
「とにかくもう頼んじゃったんだから、どんな子が来ても我慢してもらわなきゃ。 でもその子、すっごい美人だし、フワフワしてないから啓太なんかイチコロかもね……」
「えっ、ホントに? うわぁ、期待しちゃうなー。」
「ほらね、見る前からこの有様……信じらんないわ」
「オトコってどうしようもない生き物なのよ。 美羽ちゃんもだんだんわかって来るわよ」
「もうわかっちゃったわ。 いま考えてんの、別れるかどうか……」
「えっ! マジ!」
「ほらほら、啓太クン。 言い訳しないと捨てられちゃうわよ」
ママに煽られてパニックになる啓太。 笑って見詰める美羽。 ママのお蔭ですっかり仲直りだ。
「ねえ、ところで啓太ってハンコ作ったの?」
「え? 何で?」
「就職が内定したら、誓約書なんかを会社に出さなきゃなんないじゃない。 その時に印鑑証明してある実印を押さなきゃなんないでしょ?」
「そんなもんなの? じゃあ、作んなきゃ……」
「わたし、知ってる店があるの。 そこで作ってあげて」
「ああ、いいよ。 その店教えてよ」
「じゃあ、いまから行こうか。 この近所だし……」
「えっ、いまから? そうだね、早い方がイイや」
「美羽ちゃん……」
「ママ、これ二人分のジュース代。 ご馳走さま、美味しかったわ」
さっさと支払いを済ませた美羽、何事か言いかけたママに構わずに啓太の腕を取って店から出る。 異性と腕を組んで街を歩くという人生初めての経験に、これ以上ムリというくらい鼻の下が伸びきっている啓太。 梅雨時のじめじめした曇り空、肌にまとわりつくような街中の湿気を帯びた空気、しかしその中にあって隣で躰を寄せている美羽から漂ってくる甘い女性の香り、微かな吐息、歩を進める度に無意識に胸に触れる二の腕にざわざわと心が騒いでいる。 美羽とはまだキスも交わしていない啓太は眼が眩むほど舞い上がり、何処をどう歩いているのか全く分かっていない。 そのうち我慢も限界に達した啓太、人目もはばからず抱きしめてキスしようとしたその矢先、いきなり美羽は歩を停めた。
「着いたわ。 ここよ」
確かに松崎印判店と微かに読める小さな看板が目立たない場所にひっそりとかかっている。 鉄の枠はすっかり錆びつき、書かれている店名も所々消えかかっていて、知らない人にはこの店が一体何の店なのかきっと分からないだろう。 古ぼけた格子戸、カラス窓の向こうに店の中の様子がぼんやりと窺える。
「こんな所にハンコ屋さんがあったっけ? たぶん何度か通ったことあるけど全然覚えてないや……」
「さあ、私はちょっと用があるので、悪いけど今日はこれで失礼するわ。 明日、時間とかメールして」
「なんだよ、もう帰っちゃうの?」
「ゴメン、もうバイトの時間なの。 じゃ、またね」
「ちょ、ちょっと、美羽。 えー、帰っちゃった……まあ、知っているハンコ屋さんもないんだから、どこで作ったって良いんだけど……それにしても、営業してんのかな」
すっかり傷んだ古い格子戸の取っ手を引くと、カラカラと軽い音をたてて入口の戸が開く。 いきなり中からひんやりした風が吹き付けてくる。 薄暗い店の中を見回しながら、敷居から一歩中に踏み込むとまるで時代を遡り、昭和の時代に紛れ込んだかの様な感覚に捉われる。
大きさや材質、色など何十点ものハンコの見本がずらっと並んでいるガラスのショーケースには沢山の細かな傷が付いており、その年季が偲ばれる。 手前にはアイウエオ順で並んでいる認印が入った年代物のハンコケースが3台。 所々苗字が抜けたままになっている朱肉がいらないハンコのケース、訂正印や会社の帳簿に押すハンコが入った小ぶりなケース、奥の棚には水牛の角が飾ってある。 眼に映る全てが時代を感じさせるものばかりだった。
「ごめん下さい。 ごめん下さーい」
「はい、少々お待ちください……いらっしゃいませ」
奥から女性が出てきた。 恐らく40代、美しい黒髪を背中の途中で束ねている。 きりっとした切れ長の眼、通った鼻筋に小さな唇。 黒っぽいワンピース姿がその透き通るような色白の顔や腕をくっきり引き立たせている美しい女性だ。
「あの、実印を作りたいんですが……」
「どういったものをご希望でしょうか」
消え入るような小声でショーケースを指し示すその女性の細く白い指に思わず身震いする。
「別にこれといって希望するモノはないんです。 フツーの一般的なモノでいいんです」
「実印は一生ものですから、高価なものを希望される方も多いのですが、例えば象牙とかオランダ水牛とか……普通に一般的なものといえばこれなんか……黒水牛ですけど……お値段的にも一般的だし……」
「じゃあ、それにします」
「大きさは?」
「お任せします……何にも解らないんで……」
「じゃあ、男性の方ですから15ミリで、書体は印相体でいいですね……お名前を教えていただけますか」
「はい。 東啓太といいます。 あの、いつできますか?」
「お急ぎですか? お時間頂ければすぐ彫りますけど」
「あの、今日はずっと暇なんで……待ってますから、お願い出来ますか」
「そこの長椅子に腰かけてお待ちください……すぐかかります」
勧められた長椅子に腰かけて女店主の後姿をぼんやり見つめる。 どうも独りで切り盛りしているようだ。 指輪もしていないから独身かも知れない。 それにしてもさっきから随分長くいるのにお客が一人も入ってこない。 この客数で食べていけるんだから、ハンコって結構儲かるんだなって思ってしまう。 果たして原価っていくらなんだろうなどと下世話な想像をしているうちになんだか眠くなってきた。 壁の色褪せたポスターをぼんやり眺めながら、いつの間にか啓太は小さな寝息を立てていた。
「東啓太さん、東啓太さん」
誰かが何度も名前を呼んでいる。 瞼を擦りながら身体を起こすと、ハンコ屋の女店主の美しい顔が目の前にある。
「起こしてしまってごめんなさい。 もうすぐ仕上がるんですが、奥で冷たいお飲物でもいかがですか。 ここじゃ、殺風景ですから……」
「はあ、じゃあ、御馳走になります」
女店主の後に続いて靴を脱ぎ、住居になっている奥に一歩踏み入れると店舗スペース以上に冷たい空気を感じる。 ギシギシ鳴る床板をそろりそろりと踏みながら、薄暗い廊下を進んでいくと突き当りの手前、右側の障子戸が開いている。 女主人の後に従ってその部屋に入った啓太は、異様な雰囲気に言葉を失い唖然とする。 テーブルも椅子も何もない部屋に、ただ一組布団が引いてある。 枕元には小さなナイトスタンドが頼りない明かりを揺らめかせていて、その雰囲気は女郎と一夜を愉しむ江戸時代の岡場所を連想させた。
「あ、あの、これって……どういう事ですか?」
後ろ手に障子を閉めると啓太の眼をまっすぐ見据えたまま、ワンピースの背中のジッパーをゆっくり下していく。
「ちょ、ちょっと、どう言うことなんですか……冗談はヤメテください……僕、全然そんな気ありませんから……」
「ごめんなさいね、何のお構いも出来なくて……お若い啓太さんにはこんなくたびれたおばさんじゃとても満足できないでしょうけど……」
脱いだワンピースを足元に落とすと下着を着けていない美しく透き通るような躰が暗闇の中でぼーっと浮かんで見える。 ほっそりとしたカラダの割には豊かに膨らんだ形のいい乳房、くびれたウエス周りから広く張り出している腰付、伸び上り両腕を持ち上げると後ろ手に組み、恥らうように俯きながらくるりと一回転した後、敷かれている蒲団の上でそっとこちらに手招きする。
「私は百合子と申します。 さあ、啓太さん、遠慮なさらず」
啓太のごくりと生唾を飲み込む音が静かな部屋に響く。
「百合子さん、いいんですか? ご主人はいらっしゃらないのですか?」
「夫とはもう10年以上前に別れました……若い女と一緒になって……私を棄てて出て行ったんです……それっきり私は独りぼっち……さあ、遠慮なさらず、早く……来て……」
全裸で仰向けになっている百合子を見下ろしながら、覚悟を決めた啓太は服とズボンを脱ぎ、ゆっくりと躰を重ねていく。 ひんやりと冷たい、まるで冷蔵庫から出したばかりのプリンのような滑らかな百合子の肌が若い啓太の欲情を燃え上がらせる。
狂おしく喘ぎ、悶える百合子。 夢中で強く抱きしめ躰を密着させる啓太。 一夜限りの男女の戯れ、身も心も蕩ける様な快楽に酔いしれる二人。
「素晴らしいわ。 こんな素敵なモノを持ってらっしゃるなんて……」
「こんなのきっと普通ですよ。 象牙でもオランダ水牛でもない。 貧弱な安物ですよ……」
「そんなことないわ……私にぴったり……ずっと待ち望み、やっと巡り合えた私にぴったりのモノ……さあ、契約よ。 来て。 契約の印を結ぶのよ……」
やがて啓太は猛り狂った大量の欲望を吐き出した。 華奢な躰の奥深くでその迸りを受け止める百合子。 艶やかな黒髪が白いシーツの上を放射線状に広がり、うっすらとほほ笑んだ真っ白い顔がナイトスタンドの柔らかな明かりに照らされて、息を飲むほどの美しさだ。
「ああ、嬉しい。 これで契約は完了よ」
夢見心地で女主人の宣言を聞いていた啓太、全身の力が抜ける様な感覚でそのまま深い眠りに落ちて行った。
「東啓太さん、出来ましたよ。 ……東さん、東さん」
ゆっくり瞼を開けると目の前にハンコ屋の女主人が立っていた。
「……あれ、ここは……お店の長椅子だ……おかしいな、奥の部屋の布団で眠ったはずなのに……」
「寝ぼけてらっしゃるのね……ずっとここで眠っていらっしゃいましたよ。 ごめんなさいね、遅くなっちゃって。 はいこれ、ケースはサービスしておきますから……」
寝ぼけ眼の啓太は松崎印判店と印刷された袋を受け取りながら、まだ半信半疑な表情で辺りを見回している。
「……ああ、有難うございます……なんか変な夢を見ちゃって……」
「どんな夢でした?」
「えっ、いや、ちょっと、恥かしくて松崎さんには言えない内容です……でもなんかリアルな夢だったな。 普通、夢から覚めるとその内容はあんまり覚えていないものなのに、この生々しい夢はまだハッキリと覚えている」
「そんなにはっきりと覚えていらっしゃるのなら、ちょっとだけでも教えていただきたいわ」
「夢の中で松崎さんと契約を交わしたんですよ。 なんの契約か知らないですけど……確かに契約は完了したって松崎さんが……」
「あら、そんなに簡単に契約が取れるんだったら、ハンコ屋なんか廃業して保険屋になろうかしら」
「ハハハ、そうですね。 ところでお代は、おいくらですか?」
「一万二千円です。 ああ、今度でいいですよ」
「いや、いま払っていきます。 はい、これで……」
「有難うございます。 もし朱肉のつきが悪かったりしたら持って来てくださいね」
もう一度礼を言って店を出る。 すっかり暗くなった裏通りの商店街、相変わらず肌にまとわりつくようなじめじめした空気に顔を歪めながら、名残惜しげに振り返って松崎印判店の古びた格子戸を見やる。 電気が消されて真っ暗になった店内、消えかかって殆ど読めない看板の下に小さな表札がかかっている。
「あれ、表札だ……松崎賢治……松崎……百合子……松崎百合子!」
(夢の中で確かに松崎さんは自分のことを百合子って名乗ったぞ! 夢じゃない……本当だったんだ!)
アパートに帰り布団に入った啓太だったが、眼が冴えてどうにも寝付けない。 身体が妙に熱っぽい。
「どうしちゃったのかな……メッチャ疲れてんのに全然眠れないや……」
眼を閉じると昼間の出来事が生々しく甦って来る。 腕の中で激しく身悶える百合子のしっとりと吸い付くような白い肌、眼も眩むばかりの成熟した肢体、そしてあの気の遠くなるような歓び、快感。
「……百合子さんはどうしているんだろう……もう眠ってしまったかな……今まで何人かの女性と経験があるけど、あんな素晴らしい女性は初めてだ……」
テーブルの上に置いてある松崎印判店と印刷された袋に入ったままのハンコを見やる啓太、起き上がり袋を開けてケースを取り出し、中のハンコを確認する。 重厚な色艶、鈍い光沢を放つそのハンコを眺めていると急に百合子の言った言葉が甦って来る。
「契約……契約……契約を果たす……」
啓太の頭の中で何度も何度もその言葉が響き渡る。 次第に熱病に犯されたかのように息が荒くなり、キョロキョロと視線が定まらなくなってくる。
「呼んでいる……百合子さんが契約を果たせって呼んでいる……そうだ、契約だ……契約を果たすんだ」
すでにいつもの啓太ではない。 見えない力に操られているかのようにふらふらと立ち上がり、着の身着のままアパートを飛び出すと夜の街を一目散に百合子の店に向かう。
眼を血走らせ、息を荒げながら前につんのめるようにして必死になって歩く啓太の姿を見た人はその異様な姿に眉をひそめたことだろう。
どういう道順で歩いたのか全く記憶が無いまま、啓太はいつの間にか例のハンコ屋の前に立っていた。 すでに夜の12時過ぎ、裏通りの商店街はひっそりと静まり返り、百合子はもう床に就いてしまったのだろう、格子戸の間から店の中を覗き込んでも真っ暗で何も見えない。
「こんばんは、こんばんは」
真っ暗な店には何の反応もない。
「ごめん下さい、すいません」
呼んでも一向に返事がない。 入り口のとってを引くとカラカラと引き戸が開いた。
「鍵がかかってない……不用心だな……松崎さん、夜分すいません」
顔を突っ込んで真っ暗な店の中をぐるりと見回す啓太。
「!!」
「……いらっしゃい、啓太さん」
見回したすぐ横に白い顔をした百合子がボーッと立っている。
「い、いらっしゃるんなら、言ってくださいよ。 ああ、夜分にすみません……あの……」
「そろそろいらっしゃる頃だと思って待っていました。 さあ、どうぞ」
ほつれ毛を掻きあげながら伏し目がちに手招きするかすりの柄の寝間着を来た百合子、大きくはだけた襟の合わせ目から豊かに盛り上がった乳房が覗ける。 先に立って店の奥に続く段を上がる百合子の裾がたくし上がり、艶めかしい白いふくらはぎが暗闇にボーッと浮かんでいるのを見ると、いやがおうにも欲情は勃まってくる。
ギシギシ鳴る床板、冷たい風、昼間と同じ奥の突き当り右側にある部屋に入ると微かに伽羅の香りがする。 何も言わずに布団の上で帯を解き、着ていた寝間着を足元に落とす。 熟し切った美しい躰を惜しげもなく晒す百合子を、枕元のナイトスタンドの淡い明かりが照らしている。
「さあ、遠慮なさらずに……心行くまで抱いてください……」
「ゆ、百合子さん!」
ドロドロした欲情に支配された啓太は、百合子の躰を布団の上に押し倒す。
「啓太さんったら、そんなに焦らなくても大丈夫よ。 夜は長いわ」
諭すような百合子の声も、夢中でむしゃぶりついている啓太の耳には全く届いていなかった。
「啓太、おい啓太。 いるのかよ」
何度か呼び鈴を押し、ドアを叩くが一向に返事がない。
「俺だよ。 弘法だよ。 どうしたんだよ」
ドアのノブに手をかけると、鍵がかかっていない。
「なんだよ、空いてんじゃん。 おい啓太、入るぞ」
狭い入口から中に入ると右側にキッチン、左側にユニットバスとトイレ、奥が6畳の部屋になっている学生向けの1Kのアパート、啓太は奥にあるベッドで臥せっていた。
「おい、どうしたんだよ。 具合でも悪いのか?」
向こう向きに休んでいる啓太の傍に歩み寄り、その顔を覗き見た弘法は飛び上がるほど驚く。
「ど、どうしたんだよ!」
頬はこけ、瞼は落ちくぼみ、異様にどす黒くなった顔色、どう見ても別人のような啓太がゆっくりと眼を開ける。
「……こ、弘法か……なんかオレ、メチャクチャ疲れちゃって……」
「救急車呼ぼうか? ちょっとヤバすぎるだろ。 昨日の昼間はあんなに元気だったじゃないか。 どうしちゃったんだよ」
「……多分、寝てれば治ると思うんだけど……そんなにヒドく見える?」
「全然別人だよ。 うっわあ、髪の毛だって真っ白になっちゃってる……お前、なんかヤバイ薬に手ェだしたんじゃねえの? じゃなかったら、一晩でこんな風にはならないよ」
「……誰にも言わないでくれるか? 親友のお前だから言うんだけど、実はスゲエ美人の女性と知り合ったんだ。 それでさ、成り行きでヤッちゃったんだ……昨日……2回も……」
「……お前なんか親友でもなんでもねえよ。 内緒でカノジョを作るし、美人の女性とエッチするし、どんな女の子がコンパに来るのかさえ教えてくれねえんだもんな……」
「まあ、そう言わずに聞いてくれよ。 あれからさあ……」
啓太は昨日弘法と別れた後に起こった出来事を全て話した。 黙って聞いていた弘法は何度も首をかしげたり、遠くを見て何か思い出そうとしている仕草を繰り返した。
「……妙だな……俺、なんか聞いたことがある……ちょっと待ってろ」
弘法はポケットからスマホを取り出すと、いきなり電話を始める。
「……ああ、親父? オレオレ……ハァ? オレオレ詐欺じゃねえよ! 本人だよ! 実はさ、ちょっと友達が困ったことになっちゃってて……だからオレオレじゃねーって! うん、そうなんだ……じゃ、どうすればいいんだよ……えっ、お札? 結界? それから? えーっ、そんなんムリだよ! 友達の為? ああ、分かったよ……やってみる……じゃ、サンキュー親父」
弘法は電話を切ると啓太の手を握りしめながら、真剣な表情で話し始める。
「いま、親父に電話をして聞いたんだ。 やっぱり間違いない。 お前は死霊に憑りつかれているんだ」
「死霊?」
「お前が抱いたその女は、恐らくとうの昔に死んじまってる女だ」
「そんな……確かに生きていたぞ。 死人なんかじゃねえよ」
「その女は、何かこの世に未練があって若い男を次々と誘い込んでは、そのエキスで美しい身体を維持してるらしい。 啓太も被害者の一人だってことだよ」
「そんな……あの百合子さんが……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「もう二度とその百合子さんに逢わない事だ。 親父が言うには、3度抱いたらすべての精を吸い取られて死んじまうって言ってた。 昨日2回抱いているから、もうあと一回でアウトってことだよ」
「……俺、昨日の夜、身体が火照ってどうしても眠れなくて……そのうちに百合子さんを抱きたくて抱きたくて我慢ならなくなったんだ……夜中だというのに押しかけて……でも百合子さんは待っていた。 俺が来るのを分かってたんだ……」
「恐らく女が言ってた契約って言うのはそのことなんだろう。 契約を結んじまったお前は、無意識のうちにその女の元を3回訪れるってことに定められているんだ。」
「それじゃあ、また引き寄せられちゃったらお終いじゃん」
「今、お札を貼ってやるよ。 結界を作るんだ」
「結界?」
「女の念が入って来られないようにバリアをはるんだよ。 まあ、任せろ」
弘法は手元にあったノートを二枚に破るとそれぞれに梵字を書き込み、印を結んで真言を唱え始める。
「のうまくさんまんだ ばざら だん せんだま かろしゅだ そわたや うんたらた かんまん」
「お前、お経を知っているんだ」
「馬鹿にすんなよ。 実家の稼業はお寺だぞ。 さあ、これでいい。 これを玄関のドアと北北東の方角に貼るんだ」
「北北東?」
「丑寅の方角さ。 魔が入り込む鬼門だよ」
「お前よく知ってんなァ……見直しちゃったよ」
「この部屋の丑寅に方角にあたるのは……ここだ」
机が置いてある角の柱にセロテープで厳重にお札を張る。 次に玄関を出るともう一枚をドアの真ん中に貼った。
「さあ、これでその女との契約は不履行さ。 本人が入り口から来たって平気だよ」
その時、ドンドンとドアを叩く音。 二人とも飛び上がって驚く。
「誰だよ! このタイミングで」
「ああ、きっと美羽だよ。 電話するって言ったのにしなかったもんだから心配して見に来たんだ」
「美羽? カノジョ?」
「悪いけど、出てくれないか?」
弘法がドアを開けると心配そうな顔をした美羽が立っている。
「あの、連絡がないんでどうしたのかなって……」
「ささ、どうぞ。 啓太の奴、ちょっと体調が悪くてさ……見てやってくれる? あ、オレ? 親友の一乗谷弘法って言います。 決して怪しい者じゃありませんから……啓太、じゃあ、俺行くから。 あとでまた来るわ」
「ああ、恩にきるよ」
二人を残しアパートから出る弘法。
「しかし、あいつばっかりがなぜモテる……俺って女運ねえのかな……」
だいぶ日が落ちてきた夕方にもかかわらず、恐らく街中はまだ30度を超えているだろう。 噴き出す汗を手の甲で拭いつつ啓太が言っていた例のハンコ屋を探す。
「裏通りの商店街の中程に喫茶店があって、そこから3~400メートルいったところにハンコ屋があるって言ってたけど……ああ、あれが喫茶店だな……ちょっと一服していくかな……喉が渇いて死にそうだよ」
古びた木の扉を引くとガランとした店内に客は誰もいない。
「いらっしゃい」
カウンターに腰かけると、60年配のママがお冷を持ってくる。
「ご注文は?」
「アイスコーヒー。 ねぇママ、昨日の夕方に若いアベックが来たでしょ。 結構イケメンの大学生とロングで黒髪の綺麗な娘なんだけど……」
「ああ、啓太君と美羽ちゃん。 いつも来てくれてるのよ」
「いつも? なんだよー、自分ばっか楽しんで。 俺に内緒でそんなことしてるからバチが当たったんだー」
「ねえ、お客さんは啓太君の友達なの?」
「えっ? 何で?」
「あの二人、あれからハンコを注文すると言って出て行ったのよ。 美羽ちゃんって親しくなるとすぐハンコを作らないかって勧めるんだけど、ハンコを作った男の子は二度と店には来なくなっちゃうの……そうこうするうちにまた新しいカレシを連れてくるから、啓太君って美羽ちゃんにフラれちゃうんじゃないかと心配してたのよ……」
「それなら大丈夫だよ。 さっき啓太のアパートに来てたから」
「はい、お待ちどうさま。 でもあの子、いつも知ってる店があるからそこで作ってって言うんだけどいったいどこで作ってるのかしら……」
「なんで? もう少し行ったところにハンコ屋さんがあるんでしょ?」
「もうとっくの昔に止めちゃってるわよ。 奥さんが亡くなってそれっきり……」
「亡くなった……やっぱり……」
「きっと未だに引きずっているんだわ……だって美羽ちゃんって、そのハンコ屋さんの娘だったんですもの……」
「えっ!」
「ご主人、若い女とデキちゃって家を出ていってしまい、残った奥さんと美羽ちゃんとでハンコ屋を続けながら暮らしていたんだけど、やがて奥さんは鬱になって……とうとう去年の春先に自殺しちゃったのよ。 美羽ちゃんが学校から帰ったら、奥の和室で首を吊って死んでいたそうなの……美羽ちゃんったら気丈に振る舞っていたけどショックだったと思うわ……その後、中山って親戚の家の養女になったんだけど、元は松崎美羽ちゃんって名前なのよ」
「美羽ちゃんが百合子さんの娘……し、しまった! た、大変だ! こうしちゃいられない! ママ、お金ここに置くよ。 ありがと、ご馳走さま」
「ああ、ちょっと、お客さん! お釣り! 」
慌てて店を飛び出る。
「美羽ちゃんは母親の百合子さんに操られているんだ。 ということはもうとっくの昔にお札はなく、結界も破られてしまっているに違いない……だとしたら……」
すっかり暗くなった裏通りの商店街は人通りも絶え、小さな街灯がまばらに灯っているだけだ。
「間に合え! 間に合ってくれ!」
息せき切って夜の商店街を走る弘法。 重々しい空気が街全体を覆っている。
「あ、あれは……」
やがて遠くに一組の男女が肩を寄せ合うように歩く姿が見える。 男は足元もおぼつかない様子で横を歩く女に支えられ、やっとで歩いている。
「啓太! 啓太!」
男女は弘法の呼ぶ声を無視してさらに足取りを速めると、やがて崩れかかった廃屋の前で歩を停める。 いまにも崩れ落ちそうな軒先、薄汚れた格子戸は埃をかぶり、長い間放置されている事を窺わせる。 錆びて半分外れてしまっている松崎印判店と微かに読める看板、ガラス戸はすすけて中の様子は全く見えない。 啓太が格子戸の取っ手に手をかけ、カラカラと開けたところでやっと追いついた。
「啓太! 止めろ! 戻って来い!」
「邪魔をしないで! あなたには関係ないわ」
「美羽ちゃん、君はこうやって言い寄ってきた男たちを死んだ母親の元に誘い込んでいたんだね。 幾ら母親に操られているとはいえ、君に好意を寄せている男たちを騙して死に追いやっていることに対して何の罪の意識も感じないのかい? 啓太は君に惚れていた。 そんな純粋な啓太の心を踏みにじって……」
「あなたなんかに分かってたまるもんですか! 私とお母さんがどれだけ辛い日々を過ごしてきたか……お母さんは愛するお父さんが自分の元に帰って来るのをずっと待ち続けた。 毎日3人分の食事を作って、ワイシャツやズボンにアイロンをかけて、長い時間をかけてお化粧をして、来る日も来る日も待ち続けた。 でも、帰ってこなかった。 幾晩も幾晩も泣き明かす日々、あなたに分かる?」
「……だけど、悪いのは啓太じゃない。 悪いのは君たちを棄てて出て行ったお父さんじゃないか」
「あの人の悪口はやめて」
いきなり店の奥から白い人影が現れる。 長い黒髪に白い美しい顔、死装束を纏った百合子だ。
「あんた、啓太をどうしようって言うんだ! 啓太は俺の友達なんだ。 頼むからもう構わないでくれ」
「何か勘違いしてるようね。 私はこの子の望むままに抱かれてあげているいるだけ……さあ、邪魔立てすると後悔するわよ」
「啓太は誰が何と言おうと連れて帰る!」
弘法が啓太の腕を掴もうとした瞬間、百合子の腕が一閃する。 大柄な弘法の体があっという間に通りの向こう側の壁に叩きつけられ、そのままズルズルと路上に倒れ込む。
「チクショー……痛ってェー……」
啓太はすでに百合子の術に落ちており、この騒ぎにも何の反応も示すことなく操り人形の様に百合子の後に続いて暗い店の奥に消えようとしている。
「ダメだ! 行っちゃダメだ! 啓太ァ!」
無意識のうちに印を結び真言を唱える弘法。
「……願わくば自他もろともに 仏の道を悟りて 生死の海を渡り すみやかに解脱の彼岸に至らん……おんぼうじ しった はだはだやみ……」
突然店の中からまろび出てくる百合子、苦しげに美しい顔を歪め、白い喉を掻きむしり、低いうなり声をあげながらこちらを睨みつけている。
「……のうまくさんまんだ ばさら だん せんだま かろしゃだ そわたや うんたらた かんまん……」
「お、おのれ……このニセ坊主が!」
眼を閉じて必死で真言を唱える弘法の背後に回り込んだ美羽が、いきなり首にロープが巻きつける。
「ぐっ! や、止めろ! 美羽ちゃん……目を覚ませ……」
きりきりと首に喰いこむロープ、思わず印を解きロープを外そうともがく弘法。 操られている美羽の力は、か弱い女の子のそれではない。 次第に意識が朦朧としてくる。
「も、もうダメだ……ごめんよ、啓太……守ってやれなくて……」
薄れゆく意識の中で啓太に詫びる弘法。 視界から啓太が消えていく。
その時だった。 微かに錫杖の音。 風に乗って聞こえてくる真言。
「……観自在菩薩 行深般若波羅密多時……」
やがて暗闇の中から屈強な大男が姿を現す。 丸めた頭、黒い法衣を身にまとい、印を結びながらこちらに近づいてくるその男の顔を見た弘法は思わず叫んだ。
「……お、親父!」
「弘法、まだまだ修行が足らんな」
「な、何でここに……」
「電話で話を聞いた時に今のお前には荷が重いと考え、すぐさま飛行機に乗ったんだ。 フフッ、どうにかすんでの所で間に合ったようだな。 しかし大切な友達の命どころか、お前の命までなくなるところだったぞ」
突然現れた僧を見るや否や慌てて店の中に入る百合子。 弘法は、後ろからロープを締め上げていた美羽の腕を振りほどくと百合子を追って中に入ろうとするが、すでに鍵が閉められていて中に入ることが出来ない。
「くそっ! 入れない!」
「弘法。 そこをどくんだ。 ……おん あぼきゃ へいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん……」
もろくなっている軒先がバリバリと音をたてて崩れ落ちる。 続いて古びた格子戸が、店側を支えている壁や柱が、そして家全体が大音響と共にあっという間に倒壊する。
「お、親父! 啓太まで一緒に潰しちゃう気かよ! おい! 啓太! 大丈夫か!」
「心配するな。 あれを見ろ」
すっかり更地になったハンコ屋の跡地、そのちょうど突き当りの右側、和室があった辺りに百合子と啓太が最後の契約を果たすべく向かい合って座っている。 お互い欲情した目で見つめ合い、いままさにひとつになろうとしているのだ。
「……のうまくさんまんだ ぼだなん ばく おんあらはしゃのう おん さんまや さとばん……成仏も叶わず、帰ってくるあてのない夫を待つ辛い日々。 若い男の精を吸い続けなければ、美しさを保つことが出来ないという鬼女と化し、なんの罪もない実の娘まで利用する哀れな女。 大日如来の力を借りてこの一乗谷がお前を無間地獄から救ってやろう」
「大きなお世話だわ。 私はこの世の男どもの欲望に身体を開いてあげてるだけ。 邪魔立てするな! お前の方こそ立ち去れ!」
百合子は両腕を鞭のようにしならせると空気を切り裂くカマイタチが幾筋も起こり一乗谷和尚を襲う。
「無駄じゃ。 お前の力では、かすり傷ひとつ負わせることは出来んだろう」
手にしていた錫杖を一閃すると襲いかかってくるカマイタチはたちどころに消えてなくなる。
「お前が今でも想っているかつての夫は、今頃幸せに暮らしている事だろう。 どれだけ待っていても帰ってくることはない。 それはお前自身がよく分かっていることではないのか」
「私は若い男の精を吸ってもっともっと美しくなるのよ。 そうすればきっとあの人は帰ってくる。 そうしたらまたあの幸せな生活が取り戻せるんだわ。 親子3人の幸せな暮らしが……」
「本当にそう思っているのか……すでに死人となったお前が幸せな生活など出来る筈がないじゃないか。 意地をはるな、目を覚ませ。 このままじゃお前の娘はいつまでたっても幸せになんかなれないぞ」
「……美羽……」
「お前のつまらん意地のために犠牲になる娘のことを少しでも考えたことがあるのか。 さあ、何もかもすべて私に任せるのだ」
「……あなた……美羽……」
「安らかな、何の苦しみも感じないところに行くがよい。 この一乗谷が手助けをしてやろう」
美しい百合子の頬に一筋の涙が光る。
その時、足音を忍ばせて背後に回り込んだ美羽が手に持った角材を一乗谷和尚めがけて振り下ろす。 鈍い音がして角材は砕け散ったが、当の和尚は顔色一つ変えずじっと百合子を見詰めている。
「止めろ! なにすんだ!」
「イヤ! 放して! お母さん、今よ! 早く逃げて!」
弘法に羽交い絞めにされながらも、必死で振りほどこうともがく美羽に優しく語りかける百合子。
「美羽、もういいのよ……和尚様……今まで何人もの男の精気を吸い取り、死に追いやったこんな恐ろしい女でも、御仏のおそばに行けるのでしょうか……」
「もちろんだとも……われらはみほとけの子なり ひとえに如来大悲の本誓を仰いで 不二の浄信に安住し 菩薩利他の行業を励みて 法身の慧命を相続し奉らん おん さんまや さとばん……」
嗚咽する百合子の瞳から幾筋もの涙がこぼれ落ち、死装束を濡らしている。
「啓太君、あの和尚様に引き合わせてくれてありがとう。 娘はあなたのことを好いているわ。 どうか娘のことを宜しくお願いします……」
「さあ、お別れじゃ……願わくは 此の功徳を以て あまねく一切に及ぼし われらと衆生と みなともに仏道を成ぜん……願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道……」
「さようなら……私の大好きだったあなた……そして美羽……」
正座している百合子の髪がいきなりバサバサと抜け落ちる。 顔の皮がべろべろと剥け出すと、全身があっという間に崩れ始める。 やがてしゃれこうべだけになった百合子、首の骨から外れて啓太の足元にコロコロと転がると何事か一言二言呟き、そのままサラサラと粉になり、折からの風に吹かれて跡形もなく消えた。 崩れたハンコ屋の瓦礫はいつの間にかなくなり、『松崎賢治 百合子』と彫られた表札だけがポツンと転がっている。 街は元の平穏な様子を取り戻していた。
「終わったな……考えてみれば不憫な女だった……」
「啓太! 啓太! 大丈夫か?」
弘法が倒れている啓太の元に駆け寄る。
「……ああ、弘法か。 どうしちゃったのかな、俺。 こんな所に……」
「何にも覚えていないのか……」
「美羽が来たところまでは覚えているんだけど、後はさっぱり……」
「とにかくよかった、お前が死ななくて」
「俺が死んじゃうとコンパの話もなくなっちゃうもんな……分かるよ、お前の焦る気持ち……」
「チッ、相変わらず減らず口だな。 あっ、そうだ。 美羽ちゃんは……」
「えっ? 美羽が?」
道路の向こう側に倒れている美羽を見つけた啓太は、歯を食いしばって立ち上がるとおぼつかない足取りでフラフラよろけながら必死に美羽の傍らまで歩いていく。 その姿を黙って見詰める弘法。
「美羽、どうしたんだよ。 こんなとこで」
「わかんない……気が付いたらここに倒れてた……でも……」
「でも?」
「夢を見たわ……」
「夢?」
「死んだお母さんの夢……お母さんね、幸せになりなさいって……そう言ってた……」
「……ああ、そうだね……一緒に頑張ろう……」
「えっ」
「ああ、いや、なんでもない……気にしないで……」
顔を赤らめ、キョトキョトしながら言い訳をする啓太を、弘法は薄笑いを浮かべて見守る。
「最後にしゃれこうべが呟いたのは、きっとこのことだったんだな」
「親というものは、いつも子供のことを気にかけているものさ。 なあ、弘法。 俺はな、お前のことが心配で心配で……」
「ありがとう、親父。 お蔭で助かったよ……あれ、そのパンフレットなに?」
法衣の袖口から顔を出している分厚いパンフレットを見つけた弘法、素早く取り上げると街灯に近づける様にしてタイトルを読む。
「なになに……『超完全ガイド! 東京 夜の風俗マップ……JKから熟女まで完全網羅!』 ハア? ナニを大事に持ち歩いてんだよ! この生臭坊主! もう、信じらんね!」
「いや、これはさっき通りすがりの変なおっさんに渡されたんだ……なにか分からずにハイどうもってもらっちゃった……」
「うそつけよ! 散々見た跡があるじゃん! おまけに折り目までついてるし! ナニが息子の一大事だよ。 自分の股間が一大事じゃねえか!」
「お前、助けてもらった親に向かってなんてコト言うんだ! 馬鹿もん!」
「全然説得力ねえよ! エロ親父!」
終