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サラリーマンKの非日常  作者: ニット帽
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第四話 リリス

 こめかみの傷はもう、かさぶたすら目立たなくなってきた。歌の青年のことは記憶から薄れつつある。

つい最近の出来事ではあったが、この傷はよくよく考えればあの青年にやられたものではない。倒れた時のことをよく思い出せないのは気持ちが悪かったが、青年の足取りは引っ越したこと以外はごく普通で、”顔色確認”をなされることはなかった。”顔色”黄色のまま、経過観察である。


 偽物の青空の下での座学にはまだ慣れないが、梶本はとても丁寧に教材を解説してくれた。最近は過去のケーススタディでの学習に移り、そろそろ座学は終了になる。日曜日に役所に通うのは憂鬱だったが最近はSLAの研修があるおかげで、会社のことはあまり考えなくなっていた。自分の中で会社の比率が小さくなっていくのは清々しかった。

 神谷は相変わらず、つかみどころがない。明るいのだが、飄々として女性らしい媚びが感じられない。自分のサラリーマン生活でも、学生生活でもこういうタイプの女性には出会ったことがない。いつもニコニコしてはいるが、時折妙に冷静な無表情を見せた。あの歌の青年のときと同じように。


実地研修はあれから一度も行われていない。一度目で派手にケガした自分に気を使ってか、それとも、

元々実地研修を初日からやるなんて無茶なプログラムだったのか、木村はこう話していた。

「もーう!ケガ大丈夫ですかぁ?だから初日から実地なんて無茶苦茶だって思ったんですよー。」

実地研修を無理くり組んだのは神谷らしい。キズも大したことはなかったので特に気にはしていない。

まあ、新人が無茶な洗礼をうけるのはどの組織でも同じということだろう。


ふと、座学がひと段落し、隣でノートパソコンを広げている神谷のほうを見た。

・・・なんだ仕事をしているのかと思ったら、動画を見ている。海外の舞台のようだ。本当によくわからないコンシェルジュだ。音も大音量で聴いているのか少し漏れて聴こえてくる。


―え?


 聞き覚えがある。


 ドイツ語だ。不穏なパイプオルガンの音に大勢の混成合唱、囁くように始まりながら、ドラマチックな不況和音で終わる。


 青年の歌!これだったんだ!


 神谷のパソコンを覗き込み、神谷と目を合わせる。神谷はヘッドフォンを外すと、いつもの胡散臭い笑顔で話しかけてくる。

「柏原さんもこういうの好きなんですか?これ今、●劇場の舞台でやってるんですよー。まあ、●劇でやってるのは日本語版ですけどね。」

「なんて言うんですか?!この舞台!」

「え?知ってるのかと・・・これはー、19世紀ヨーロッパのある女性の一生を描いた舞台なんですよ。19世紀のヨーロッパって時代的に面白いんですよね。第一次世界大戦前夜っていうか。あ!この女優さん!美人でしょー。」

 神谷は●劇のパンフレットをくれた。


 この舞台は、テレビCMでも見たことがある。だから聴いたことがある気がしていたのか。

青年の歌が思ったより身近で、女性が好むようなロマンテックな舞台の曲だったことに驚いた。男性が口ずさむには随分珍しい歌だが、自分と同じでCMで覚えてしまったのかもしれない。


ーなあんだ。自分一人で気になってしまっただけか。


 柏原は大学時代、ドイツ語を第二外国語として履修していた。ドイツ語を選んだ理由はただ単に”かっこいいから”だったが、第一回目の講義ですぐに後悔した。教室に知り合いが一人もいなかったからだ。

ノートを見せてもらえる友達がいない。柏原は危機感から、講義は必ず予習して出席するようにした。おかげでドイツ語の成績は教室で1位だった。第一外国語の英語はやっとこさ単位を取った成績だというのに、なんと無駄な成績だろう、教授にも無駄に気に入られ、教授の奥さんと3人で食事に誘われたことすらある。


 そんなことがあり、柏原はドイツ語で軽く日常会話程度ならできるようになっていた。

 自分はドイツ語がわかるから妙に気になってしまったんだろう。そう思った。


 「柏原さん!」

 神谷が横からうるさい。

「ぼーっとして、どうしたんですか?それより!今日でなんと!座学は終了なのです!」

 神谷の喋り方はいちいち芝居がかっていてめんどくさい。

「次回からは、実地研修ですよ?アーユーOK?」

「・・・OKです」

 普通に答えた。

「そこで!この方が柏原さんの最初の対象者です!」


 この流れでリストを渡されるとは思っていなかった。来週自分で行う初めての”顔色確認”の相手だ。

リストの対象者は女性だった。肩くらいまでのセミロングの黒髪に縁なしメガネ、ごく普通の女性だ。写真と外観が書かれた一枚目をめくると、出身、生い立ち、学生生活、現在の勤務先、趣味、友人関係・・・

ーありとあらゆることが書かれている。

 自分もこんな風に当局のデータベースに分析されていると思うと、ぞっとした。

 ありとあらゆる個人データの中から、どうしてこの女性がリストアップされ、神谷をはじめとするコンシェルジュが危険と認め、今、自分の手に彼女のリストがあるのか。皆目わからなかった。

自分は本当にSLAなるサイコランゲージ能力者なのか?座学が終わってもこのザマだ。なにかの間違いではないのか。そう思った。

 戸惑っている柏原をよそに、神谷は相変わらずの笑顔でこう言った。


「それでは、この女性を、”リリス”ちゃんと呼びましょう!」


「なんで?」普通にそう聞いた。

「対象者を”対象者”とか、”◇◇(本名)”とかで呼ぶわけにいかないでしょう?”顔色確認”に行く前に予め、対象者の呼び方を決めておくんですよ!」

「・・・そうなんですか・・・」

「でもぉ、”リリス”なんてそんな目立つ名前、普通はつけませんけどね!」

木村が割り込んできた。梶本も一緒だ。

「来週は僕たちも一緒に行くよ。あんなことがあって不安だと思うけど、安心してね。」

梶本に言われると本当に安心してくる。来週は△デパート前に現地集合ということになった。



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