第三話 歌の青年
歌が聴こえる。
つぶやくような声なのに、鮮明に聴こえる。
どうして?
ドイツ語?聴いたことがあるような気もする。
こんな人ごみの中で、誰が歌っているんだ?
ビルが横向きだ、木村がこちらへ何か言いながら走って来ている。神谷は?
-それより!
あの青年はどこへ行ったんだ?
「柏原さん!」
木村の声だ。
「大丈夫ですか?」
木村の声。俺は倒れているのか。どうしてこんなところで・・・。
頭が痛い。アスファルトが硬い。吐き気がする。
木村に抱えられてようやっと起き上がる。倒れた時にこめかみを打ったのか、血が出ていた。駅前のロータリー近くで倒れた。対象者の青年を追った梶本が戻ってくると、首を横に振った。
神谷は冷静な無表情のまま、何も言わない。俺がこんな目にあっているのに。
午前中にオリエンテーションが済み、座学もそこそこに実地研修に駆り出された。
”顔色確認”という名の対象者確認、SLAのもとにリストアップされた対象者の顔を実際に”みる”だけの調査だからと言われ梶本についていった。リストに載っていた青年は青白い顔をした美青年だった。先程までそこのロータリーを人ごみに紛れて歩いていた青年だ。太陽光の元で見ると、それ程酷い顔色ではなかった。色白だが、青いというほどではない。こんな普通の青年が大罪を犯す可能性が高いなんて、信じられなかった。
ふと、神谷が怪訝な顔をした、その瞬間、あの歌が聴こえてきた。流暢なドイツ語で、聴いたことがあるような旋律。歌っているのは、対象者の青年!?
ー 瞬間、10メートルほど向こうにいたはずの青年が目の前に迫っていた。
ー つぎの瞬間、ビルが横向きだった。
俺は青年の顔を見たはずなのに思い出せなかった。梶本さんは青年を追ったが駅に入り、見失ったらしい。その日は4人で一旦、病院へ行き、後日、青年について当局のデータベースから詳しく調べなおすことにしよう、と梶本が提案した。
「無理させて本当にすまなかったね。今日はゆっくり休んで。」梶本は青年の様子はおかしくなかった、こちらの正体には気づくことは有り得ない。気にすることはないだろう、と言った。
ー 後日、青年については調べなおされたが、突然引っ越したらしく、行動がつかめなくなった。
”顔色確認”については黄色(黒、赤、黄色の順で精神状態が悪いらしい)とされ、歌の青年についての行動監視は打ち切られた。