その5 魔界を目指す少女
「紹介したい人って……まさか、彼氏ッ?」
「――はぁぁぁッ?」
思わせぶりな発言に脊髄反射した結果、俺は空になった木皿でゴンゴン殴られた。けっこう痛い。
「バカじゃないの、バカじゃないの! 私がお世話になってるオジサマよ! 王都の学校に通わせてくれたり、親代わりで良くしてもらってるの! 彼氏なんて……いるわけないでしょバカッ!」
キャンキャンと怒鳴り散らし、ぷいっと横を向いてしまうチョコ。その頬は熟したトマトのように赤い。
どうやら浮いた話は全くなさそうだと、なんとなくホッとする反面。
俺のアンテナに引っかかった、一つのキーワードがあった。
「えっと、そのオジサンが親代わりってことは、チョコの親は……」
つるっと口走り――ヤバい、と思った。確実に地雷を踏んだ気がした。
ダラダラと冷や汗を流す俺に、チョコはあからさまな苦笑を向けてくる。
「別にいいのよ、気を使わなくて。このあたりの人なら皆知ってることだしね」
そう呟いて、チョコは少し寂しげに窓の向こうを見やった。そして果実酒で軽く唇を湿らせてから、静かに語り出す。
「アンタにも、その話をしようと思ってここに来たの。ただ今日はお祝いでもあるから、ちょっと迷ってたのよね」
「お祝いって、俺の誕生日?」
「バカね、違うわよ。私の夢が叶ったお祝い。私はずっと――空を飛びたかった」
陶然とした面持ちのチョコが、女神へ感謝の意を示すように両手を胸の前で組み合わせる。
その胸に思い描く相手は、きっと『氷龍』だ。
俺にとっては、レールの敷かれたジェットコースターにしか見えなかった氷龍の動き。アレはチョコにとって『空を飛ぶ』行為だったのだろう。
つまり、さっきの抱擁は「夢を叶えてくれてありがとう」という純粋な感謝の気持ちで。
ちょっと残念……いや、別に俺はそういう目で雇い主殿を見たりしてないぞ!
寝るときだって外の鳥小屋だし、風呂だって外で水浴びだし!
っていうか、いくら可愛くてもチョコは性格が凶暴でときどき悪魔でいろいろ未発達で、
「――何か失礼なこと考えた?」
「いえ、全然!」
「まあいいけど……話を戻すわね。もちろん夢が叶ったって言っても、これで終わりじゃないわ。明日からは自力であの龍を作れるように頑張るつもり。そしたら、いつか本当に行けるかもしれないし」
「行けるって、どこに?」
「もちろん……魔界に」
ドクン、と心臓が跳ねた。
時折ゆらりと揺れる、柔らかなランタンの明かり。その光に照らされたチョコは壮絶なまでに綺麗で、なのに瞳だけが氷のように冷たくて……俺に一人の人物を思い起こさせた。
セバスチャン。人間を憎む悪魔。
チョコを突き動かしている感情は、もしかしたら……。
「前にも話したけど、魔界や〝魔王〟なんてものは、今やおとぎ話でしかないの。だけど千年前の書物をきちんと読めば、確かに実在するってことは分かるわ。私はそれを王都の魔術学校で調べてきた……ううん、むしろそのために王都へ行ったのよ」
それからチョコは、おとぎ話ではない真実の英雄譚を教えてくれた。
千年前の〝魔王〟はものすごく残忍で、人間界を本気で滅ぼそうとした。そこで立ち上がった一人の女魔術師――いわゆる勇者が、魔王を討ち取って世界を救った。でもそのとき魔界へ向かった勇者一行は誰ひとり戻ってこなかった。
いつしか人々の記憶は風化し、今や魔王との戦いの全てが夢物語ということになってしまった。
その話を聞いて、俺の胸に一つの疑問が湧き上がる。
「千年前の女勇者が魔界に行ったって、どうやって? やっぱり空飛んだのか?」
「それが違うの。千年前は、あちこちに魔界と繋がる〝穴〟が開いていたそうよ。魔王はその穴から魔物を大量に送り込んできたの。勇者様は逆にその穴を利用して魔界へ向かったらしいわ」
「へー、穴ねぇ」
相槌を打ちながら、俺は考える。
確か地球で死んだとき、俺も〝穴〟に落ちたような気がする。
もしそれがテレポートの魔術だったとすると、魔界へ行ける可能性……いや、地球に行ける可能性も充分あるんじゃないか?
と、期待が膨らみかけたものの。
「だけどね、穴を通れたのは勇者様とほんの一握りの聖職者だけ。ほとんどの兵士は、穴に近づいただけで死んでしまったの」
「……それは、恐ろしい穴だな」
「ええ、今の私でもそこを通るのは無理かもしれない。穴の中には魔物だけが持つ特殊な魔力が充満していて、普通の人間には耐えきれない濃度だって書物には書いてあったわ。だから、穴を見つけたら絶対に近寄るなって。ただその穴も、先の魔王が倒されると同時に全て消えてしまったの。だからせっかく魔王を倒した勇者様も魔界に閉じ込められて……きっとお辛い思いをされたんでしょうね」
勇者様にだいぶのめり込んでいるチョコが、若干涙ぐみながら遠くを見つめる。俺はリアルな魔界ライフを想像して、うーんと唸った。
「確かに、普通の人間がアソコで生きていくのは厳しいだろうな。魔力煙のせいで視界がきかないし、それこそ落とし穴とか蜘蛛の巣とか罠だらけだし。あと食い物も補給できない。探せば食える魔物もいるけど、ほとんど毒持ってるのばっかだし」
「もう、サラッとすごいこと言わないで! そうやって軽い言い方するから、嘘かホントか分からなくなるんじゃないッ」
またもやキャンキャンと怒鳴った後、チョコは心を静めるべく葡萄酒をもう一口。
そして何かを決意するように軽く頷くと、再び神妙な面持ちで語り出した。
「……まあ、ヨシキのほら話はさておき。千年前の魔王討伐のすぐ後、また新たな魔王が現れたらしいの」
「へー。でも何でそんなこと分かるんだ? また穴でも開いたのか?」
「いいえ、女神の『神託』が降りて――大神殿の巫女様がそうおっしゃったのよ。巫女様は女神の代弁者だから、事実だと思うわ」
「へー、そんなことできる人がいるのか。……っていうか、その新たな魔王って」
俺とルゥをこっちに引きずり込んだヤツじゃねーか!
と、思わず本音を漏らしてしまいそうになり、慌てて話を逸らす。
「そんな次々魔王が出てきたら、人間にとっちゃたまったもんじゃねーな、ハハハ」
……っていうか、なんかマズイ流れになってきた気がする。
その巫女様とやら、よもや『最新の魔王』についても事細かに把握してる、なんてことはないだろうな。
もしくは、それにくっついてやってきた『竹箒』のことなんて……。
内心冷や汗をかく俺に、チョコはさらりと答える。
「確かに、当時の偉い人たちはすごく慌てたでしょうね。魔王軍との戦いで、世界の人口は半分近くに減ってしまったらしいし。でも先代の魔王と違って、新たな魔王は人間を滅ぼそうとはしなかったの。そういう意味では『良い魔王』と言えるかもしれないわね」
「そっか、そうだよな、魔王にもいろいろいるもんな。イイヤツとか、カワイイヤツとか……」
もしルゥが正式な魔王になったとしても、絶対そんな恐ろしいことはしない。セバスチャンに『汚らわしい人間』への悪意を刷り込まれたとしても、ルゥの優しさはきっと変わらないはず。
だぼだぼの黒ローブを羽織った愛くるしい少女が脳内に浮かび、思わず頬を緩めかけたとき。
「――ただ、魔王は全く何もしないってわけじゃなかった。まるで冷酷な女神のように、愚かな人間に〝天罰〟を下したの」
「天罰?」
「ええ。魔王軍の脅威が去ってからしばらくすると、今度は人間同士が争い始めたの。いくつもの国が生まれては消えて行った……そんな人間たちを嘲笑うかのように、新たな魔王は気まぐれに空から魔物を落としたのよ。魔獣じゃなくて“本物の魔物”を」
その時点で、俺は気づいてしまった。チョコの言わんとしていることを。
テーブルの上で強く握りしめられた小さな手。微かに震えるワンピースの細い肩。嗚咽を堪えるように引き結ばれた赤い唇。
エメラルドの瞳に涙を湛えながら、チョコは絞り出すように告げた。
「十年前……私の両親は魔物に殺されたの。隣国アゼリアとの戦争の真っ最中にね」