その3 楽しい魔界生活の終わり
「ヨシキお兄ちゃん、ご飯まだー?」
魔王城の裏庭に増設したルゥ専用厨房の扉から、小さな頭がぴょこんと覗いた。
陶器のような白い肌に、パッチリとした大粒の瞳、桜色の唇。栗色の長い髪はツインテールに結わえてある。今日は黒いレースのリボンつき。
あまりの可愛らしさに、ついニヤニヤしてしまうけれど、それがルゥに伝わることは無い。
ルゥは感覚として俺のことを『ヨシキ』と認識しているものの、つぶらな瞳に映るビジュアルはやはり無味乾燥な竹箒だった。
「あとは肉焼くだけだから、もうちょい待ってろよー」
竹筒ヘッドから三十センチ下にある節のあたりが震えて、なんとなく俺っぽい声が出る。
以前のようにテレパシーで会話する方が楽ちんだが、いかんせん考えがダダ漏れになってしまうという弱点があった。
例えば、ルゥを見ているとつい「可愛いなぁ」と呟いてしまい、そのたびにルゥが真っ赤になってしまう、とか……。
もちろん、それだけならリア充ならぬ妹充という感じで悪くないのだが、柱の陰から視ていた悪魔女ことセバスチャンが、手のひらから尋常じゃないサイズの火の玉を出したため、やむなく封印することにした。
「あ、ハンバーグだぁ。一口ちょうだい!」
だぼだぼの黒いローブを引きずる『魔王様スタイル』のルゥが、餌をねだる仔猫のように飛びついてくる。俺はしゅるんと伸ばした毛先で、ルゥの額をツンと突いた。
「つまみ食いはダメだ。それより魔術の訓練は終わったのか?」
「う……今は休憩中だもん」
もごもごと反論するルゥの口に、アメーバを煮詰めて作った飴バーを押し込んでやると、ルゥは「ヨシキお兄ちゃん優しいね!」と微笑んで、パタパタと走り去った。
その後姿を見るだけで、俺はパワー満タンのフル充電。
「よっしゃ、ルゥのためにもう一仕事すっか!」
魔界に転生してから早一ヶ月。現在、俺のメインの仕事は二つある。
まずは、箒らしく掃き掃除だ。
魔王城にはさまざまな魔物が住みついており、一日放置すればそこらじゅうに魔物の死骸が転がって悪臭を放つ。最初はキメェと思って腰が引けていたものの、今や自慢の触手ならぬ毛先でちょちょいのちょいだ。
その後は、ルゥのために食事を作るコック箒へ変化。
毒蛙を掴まえ、毒ナマズを釣り、食獣植物を添えて一汁三菜、なんとか地球風のメニューをこしらえる。
このあたりも、母親との二人暮らしで培った料理スキルで軽々とクリア。さすがに調味料までは作れないから、下界のさらに下にあるという人間界から取り寄せてもらった。
ちなみに俺自身はといえば、食事なしでもバリバリ動けるスーパー箒だ。食材に毛先で触れれば味も分かるという味覚センサー付き。もちろん休んだり眠ったりする必要もナシ。
……なんて、かなりハイスペックなこのボディにも、問題点が一つ。
「フライパン、オッケー。バケツの水、オッケー。大丈夫、俺はやれる……」
自分に暗示をかけつつ、俺はそこらじゅうに漂う燻したような香り――いわゆる『魔力』を竹筒の中にめいっぱい吸い込む。
そして、しゅるんと伸ばした毛先に向かって魔力を噴射!
「くッ……身体が燃えるように熱いぜ……だが俺は耐えてみせる……ッ!」
ライターと化した毛先を竈に突っ込み、薪に火を移す。フライパンに肉を置いて、再び火力を調整。
あとは、燃えかけの毛先をバケツへ突っ込むだけ……。
「――またハンバーグですか、箒」
「うぉう!」
突然、竈の炎の中からセバスチャンが現れた!
ヤツは全身に青白い炎を纏わりつかせながら、俺に迫りくる!
慌てて飛び退いた俺は、用意していたバケツを倒す! びしゃー。
その間にも、燃え盛る毛先の炎は勢いを増す!
「フフフ……竹炭……黒くて素敵……」
「やめろ、こっち来んなッ! クソッ、こうなったらしょうがねぇ――秘儀、謎の水!」
ドバッ!
……。
……。
ドン引きしたセバスチャンは、仕上がった料理をワゴンに乗せると、無言のまま立ち去った。
俺はせっせと床掃除。
「フッ……これくらいたいしたことじゃねぇ。ルゥが俺のために頑張ってくれるなら、俺はその億千万倍は頑張るぜ……。そんで、もしルゥが『魔王』じゃなく人として生きることを望むなら、一緒に地球へ帰る方法を探してやる。ルゥの身柄を施設から引き取って、母さんと三人で仲良く暮らすんだ……」
なんだかしょっぱい気分になってきた。
気を抜くと、また謎の液体が漏れてしまいそうだ。
「まあ、あんまり先のことを考えてもしょうがねぇよな。まずはこの世界で最強の『ハウスキーパー』になってやる。つまんねぇ魔物に食われて死んだりしたら洒落にならんし。あと、ちゃんと安定して空を飛べるようになって、ルゥを乗せて魔界の夜空を散歩す」
「――調子に乗るんじゃない、箒」
「うぉう!」
今度は普通に扉を開けて現れたセバスチャンが、豊かな胸の前で腕組みしながら、凍てつく氷の言霊を吐いた。
「何やら生意気なことを考えているようですが、箒ごときが魔王を連れて外をふらつくなど言語道断。ルゥ様が魔力を高め、魔王の指輪をつけられるようになればお前は用無しです。即刻汚らわしい人間界へ落としてやりましょう」
「おう、やれるもんならやってみろ。どこへ落とされても、俺はここに戻ってきてやるぜ!」
……と、カッコ良く言い返してみたものの、正直なところ俺はかなり楽観視していた。
口でああは言っても、結局セバスチャンは『ルゥ様命』だ。
ルゥが俺にべったり懐いている限り、無理やり引き離すようなことはしないだろう、と。
つまり俺は……セバスチャンを甘く見ていたのだ。
◆
「そろそろ塩が切れそうです。汚らわしい人間界へ仕入れに行かねばなりませんが、その際にはルゥ様の喜ぶような物資も調達したく思います。付いて来なさい、箒」
一日一度、月が沈んだ直後に行われる食事の席での唐突な命令だった。それを耳にしたルゥが、マシュマロみたいな頬をぷうっと膨らませる。
「あたしも一緒に行きたい!」
「ルゥ様……以前もご説明しましたが、汚らわしい人間界には〝魔力〟がほとんど存在しません。ルゥ様の中に少しずつ溜まってきた魔力も、全て流れ出てしまうでしょう。そうなると修行は一からやり直しですが、それでもよろしければご一緒しま」
「――るぅ、お留守番してる!」
そんな微笑ましいやりとりを経て迎えた、翌日。
地下ダンジョンの入口まで見送りにきたルゥは「いってらっしゃい!」と可愛らしく手を振ってくれた。俺は上下逆さまでセバスチャンの腰紐に差し込まれるという情けない格好のまま、毛先をぱたぱたと振り返した。
そうしてちょっとワクワクしながら、俺は初めての人間界ツアーへ出発した。
……はずが。
ダンジョンを抜け、下界を遥か下に見おろす『塔』の先端についたとき、セバスチャンは腰に挿した俺を無造作に引っこ抜いた。
そして闇夜のごとき瞳を忌々しげに細めて。
「この一ヶ月、ワタクシはお前を見ていて悟りました。お前はルゥ様の〝下僕〟として相応しくありません。その容姿はさておき、魔力も知力も全てが貧弱。汚らわしい人間界で修行でもして、ルゥ様に相応しい力を身につけてきなさい。まあ、このまま野垂れ死んでもらっても一向に構いませんが。では永遠にさようなら」
そう言って悪魔のごとき美女は、俺を塔の上からポイッと放り投げたのだった。
当然、俺は……。
「――落ちる、落ちる、落ちるぅぅぅぅ!」
前世で死んだとき魂に刻まれてしまった恐怖が、俺の毛先をぶるぶると震わせる。
それでも、竹筒の中に溜めこんだ魔力のおかげで俺は――空を飛んでいた。
きっとスカイダイビングというのは、こんな感覚なんだろう。
辛うじて気を失わない程度のスピードで、俺は黒く分厚い魔力雲の層を突っ切り、下界の更に下へと落ちて行く。途中で出会ったプテラノドンに似た怪鳥も、明らかな異物である俺を見るや一目散に逃げて行く。
体感で一時間ほど経った頃、ようやく『世界』が切り替わったのを感じた。
魔力の塊である黒雲は消え、眩い光が差し込んでくる。斜め前に浮かぶ丸い物体……あれは見紛うことなき太陽だ。そして、青い空に白い雲という馴染みのある光景がスタート。
落下そのものにも慣れてきて、「魔界ってずいぶんと上の方にあるんだなぁ」なんてことを呟いてみたり。
そのとき、一つの不安が胸を過った。
……一体どれだけ魔力を溜めれば、魔界まで飛べるんだろう?
今の俺じゃ、上にあがるどころか落ちるスピードを緩めるだけで精一杯。もし戻れなければセバスチャンの目論見通り、ルゥとは永遠に「さようなら」だ。
「ヤバい、マジでヤバい。考えろ、どうすればいいか……」
あいつは恐ろしい悪魔だけど、ルゥに危害を加えるようなことは絶対にしない。それだけは最低限の安心材料だ。
でも、ルゥは絶対に泣く。
両親を亡くしてひとりぼっちになって、ようやく立ち直りつつあったのに……また傷ついてしまう。セバスチャンは明るく振る舞うルゥしか見てないから気付かないんだろうけれど、俺には分かる。
ルゥにとって俺は唯一の〝家族〟であり、心の支えなんだ。自惚れじゃなくそう思う。
だから、きっとルゥは俺を追ってくる。
俺があの塔から落ちたと知れば、躊躇なく飛び降りるだろう。
「ったく、しょうがねぇな……」
俺は魔力の薄い人間界の空気をめいっぱい吸い込んだ。そして遥か上空に向かい、出来る限りのパワーでテレパシーを飛ばした。
『ルゥ……この声が聴こえるか? 俺はしばらく人間界で暮らすことになった。でも絶対ルゥに会いに行くから、良い子にして待ってろよ!』