その6 救いの神の足音
「……い、おいッ!」
肩を強く揺さぶられ、俺はゆるゆると頭を持ち上げた。
意識は戻ってきたものの、どんなに力を入れても目が半開きにしかならない。
いびつな横長の視界に映ったのは、見慣れた牢屋番の兵士だ。サディスト野郎の背後で震えあがっていた二人のうちの一人。
「口を開けろ、早くッ!」
怒鳴りつけたいのを堪えるような掠れ声だった。
訳が分からないまま口を開くと、その中に温かなものが注ぎ込まれた。大部屋時代にお世話になっていた雑炊だ。
米の甘みと仄かな塩気が痛んだ喉を通り、胃の腑へと落ちて行く。
俺は食い意地が張った雛鳥のように、何度も口を開いた。そのたびに雑炊が投入され、冷え切っていた身体がじわじわと熱を取り戻していく。
「もうねぇよ、今日は終わりだ。水も飲むか?」
無言のまま頷く俺の唇に、ひんやりとした陶器の感触。傾けられた水筒から流れる水を、俺は一滴も零すまいと息を止めて飲み干した。
そうして、ようやくホッと息をつく。
半開きだった瞼がしっかりと持ち上がり、状況が視えてくる。
俺に〝餌〟を与えてくれた兵士の奥には、ランタンを持ったもう一人の兵士がいる。そわそわと身体を揺らし、通路の奥をしきりに見やっている。
きっと彼らは、上司の命令に逆らってここへやってきたのだ。俺に飯を食わせるために。
「どうして……」
自然と零れた疑問に、兵士はふいっと顔を背けた。それは答えを拒絶するという意味じゃなく、何かを探るようなしぐさで。
「ネズミが……俺の足を、齧ったんだよ」
「ネズミ?」
「ああ、今日の昼間、ヤツがお前を痛めつけるのに夢中になってるときにな。ソイツを追ってったら、奥の独房の中に妙な男がいて……俺に言ったんだ。『もし罪人が嘘をついてなかったらどうする?』ってな」
ネズミの主だ。
たぶん彼は、俺を助けるために危険を冒してそんなことを……。
「正直、オレには何もかも分からなくなっちまった。枢機卿様が嘘を見抜かないわけがない。だがもしもお前が本当にチョコ様の弟子なら……今オレたちのやってることは、ものすごく罪深いことだ」
「俺を、信じてくれるのか……?」
縋りつくような声に、兵士は戸惑い、俯き、首を横に振った。
「悪いが、オレたちにできるのはここまでだ。さすがに自分の身が可愛いからな。とにかくお前が死なないように世話はしてやる。チョコ様の居場所も探っておく」
時間が無いのか、ランタンを持つ見張りの兵士が「急げ」と叫ぶ。
踵を返した兵士の背中に、俺は声をかけた。
「もう一つ頼みがある、大事な頼みだ」
「何だ?」
「四日前の早朝、この街に〝巫女様〟が来た。それは門番の兵士も見てるはずだ。巫女様の名前はスミレ、護衛の少女はスイレン。彼女たちを守って欲しい。牢の中の盗賊を皆殺しにするような、危険な奴に狙われてるんだ」
◆
窮鼠猫を噛む……俺はこの言葉が好きだった。
例えば地球でのケンカでも、俺は闇討ちするような卑怯者に何度か殺されかけた。
そんなとき俺は、逆転の一撃を放てるくらいの余力を残して地べたに倒れ込む。どんなに用意周到な奴らでも、勝利を確信した瞬間に隙が生まれるからだ。
今も俺は、全力で演技をしていた。
「ちッ……もうへばったか。この根性無しが!」
サディスト野郎の罵倒にも反応しない。意識を失ったフリをする。
「だいぶ弱っている」
「そろそろ死にそうだ」
と、背後の兵士たちも俺の演技をアシストしてくれる。
――すると、必ず枢機卿が呼ばれる。
「貴方は、ディアスキアの間諜ですか?」
天国へ誘うようなその声に、ぐったりと頭を垂れながらも「違う」と答える。
「ずいぶんと強情な方ですねぇ……では、また明日」
灯りとともに兵士たちが立ち去った後、俺は〝ネズミの主〟と少しだけ会話をする。
自分のことを狂人というのも、ある意味当たっていた。
彼曰く「オレは、ここにぶちこまれた訳じゃねぇ、オレが望んで住人になったんだぁ」とのこと。
姿は視えないものの、俺の中のイメージはすっかり『仙人様』だ。彼との会話は純粋に楽しく、俺の心の拠り所になっていた。
仙人様は気まぐれで、会話の途中で黙りこんだり眠ってしまったりする。
静寂を取り戻した牢獄に、〝コウモリ〟の兵士がやってくる。胡散臭い枢機卿やサディスト野郎にペコペコしながらも、俺へ食事を運んでくれる大事な味方が。
しかしその日は、いつもと違った。
足音が二人分と、そこに重なる軽い音がもう一つ……。
兵士の背後から現れた人物に、俺は思わず目を瞠った。
兵士たちより頭一つ分以上小柄で、簡素な綿の上下を身に付けた、やたらと身のこなしが軽い忍者みたいなその人物は――
「うっす、ヨシ坊。久しぶりだな」
「シューマさんッ?」
「おっと、あんまりデカイ声出すなよ? 上で寝てる狼が起きちまう」
顔をしわくちゃにして苦笑しつつ、シューマさんは勝手に牢の鍵を開けた。
驚いて兵士たちを見やるも、わざとらしくそっぽを向いている。たぶん全てを、シューマさんが勝手にやったことにしたいのだろう。
牢の鍵を盗むのも、俺を……脱獄させるのも。
ベテランスリ師ならではの繊細な指先の動きで、俺をこの地獄に縛りつけていた枷が外される。
しっかりと両足で立ち上がる……つもりだったのに、強張った俺の身体はぐらりと前に傾いた。慌ててシューマさんが抱きとめてくれる。
「しばらく見ないうちに痩せたんじゃねぇか? こんなにガリガリじゃ女にモテねぇぞ?」
「……これくらい、すぐに取り戻してみせますよ」
憎まれ口を叩き、シューマさんを一笑いさせてから、俺は小さくも力強いその肩を借りて歩き出した。
ふと、背後が気になった。
闇に包まれる通路の向こう、たぶん眠りについているだろう主の代わりに、小さなネズミが「キキッ」と鳴いた。




