その4 枢機卿という人物
「……ばん……八番……――百六十八番!」
「ハイッ!」
考え事をしていたせいで、危うく点呼をスルーするところだった。
慌てて立ちあがった俺は、おやと首を傾げる。
夕食配ぜん前の点呼には少し時間が早いというか……呼ばれたのは俺だけだ。
明るくフレンドリーな門番の兵士たちに比べ、若干陰気な空気を纏った牢屋番の兵士は、いつになく険しい顔で俺を呼びつけた。そしてなぜか俺一人が牢から出される。
といっても、冤罪が証明されたって訳じゃ無さそうだ。
牢屋番の兵士は、俺の胸元に剣先を突きつけながら「歩け」とぶっきらぼうに指示する。先導する兵士、俺、剣を掲げたもう一人という順番で列になる。
背後から「おい、ヨシ坊!」という心配そうなシューマさんの声が飛んだので、俺は首だけ振り向き「大丈夫」という気持ちを込めて会釈した。途端に後ろの兵士に蹴飛ばされ、慌てて歩みを進める。
いわゆる『軽犯罪者』向けとは一線を画す荒っぽいその行為に、若干の不安を感じつつ俺が連れて行かれた場所は……。
「入れ」
「ちょっと待ってください、どうして俺がッ」
「口答えするな!」
頭ごなしに怒鳴りつけられた上、二方向から分厚い鋼の剣を向けられた俺は、仕方なく腰をかがめて鉄格子の扉をくぐった。
ここは地下四階。大部屋がある一階の牢から、階段を三フロア分も降りた。
地下一階は故意ではなく人を傷つけた者、地下二階は意図的に人を傷つけた者、地下三階は人を殺した者が入るという地下牢のシステムからすると、俺はあの盗賊たちよりも〝悪者〟と思われてしまったわけだ。
――大丈夫、今までだって俺は、けっこうなピンチを乗り越えてきたんだ。冷静になれ。
自分に言い聞かせ、ひとまず状況を確認する。
まず理解したのは、ここがいわゆる『独房』だということ。四畳半ほどの贅沢なスペースに入れられるのは俺一人。
今までの大部屋とは何もかもが違った。
月の無い夜のような暗さに、耐えがたい悪臭。一分と経たずに鼻がやられ、酸っぱい胃液が込み上げてくる。
やたらと息苦しく感じるのは、この部屋全体に『魔力封じ』が施されているせいだろう。牢屋番の兵士ですらこのフロアでは魔術を使うことができない。
しばらくすると、一人の見知らぬ兵士が現れた。
戦い慣れしている感じの、かなりゴツイ男だ。そいつの手にしたランタンのおかげで、暗い独房の中がようやく見渡せるようになり……。
「う……ッ」
思わず呻き声を漏らしてしまった。奥の壁に固定された四つの『枷』を発見して。
シューマさんからほんの少しだけ聞きかじっていた、特別な犯罪者だけが放り込まれる拷問部屋……それがここだと分かった。
貴族などの重鎮を狙った暗殺者や、他国の間諜に情報を吐かせるため。
もしくは、殺しても殺し足りないくらい市民から憎まれた殺人鬼が、女神に慈悲を乞いながら死にゆくための部屋。
「壁に背中をつけて、手足を広げろ」
手錠が外され、死臭がこびり付いた奥の壁に大の字で繋ぎ直される。一瞬『脱獄』の二文字が脳裏を過ったものの、二本の剣を首筋にピタリと当てられたため断念。
身体を壁に固定された後、身に着けていた麻の上下を剣で破り捨てられ全裸にされる。口の中に何かを隠していないか念入りにチェックされた後、三人の兵士は一旦退出。
鉄格子の門が固く閉ざされた後、俺はふうっと嘆息した。
状況はサイアクだ。
こんな格好じゃ、トイレに行きたくても行けない……というか、ここにそんな設備は無い。全て垂れ流しだ。一応床には排水溝があるから、そのうち洗い流されるんだろう。
まあ、トイレくらいなら我慢できる。でも眠るのもこの体勢はキツイ。
運動は確実に無理だし、飯も出ない気がする。最低限の水くらいは飲ませてもらえるかもしれないけれど……期待はできない。
俺はここで、殺されるのかもしれない。
さっきの二人の兵士、大部屋にいるときは普通に接していた。俺の『ほら話』にも楽しそうに笑っていた。
なのに今は虫けらのように俺を見ていた。あからさまな憎しみを込めて。
そんな目にあう理由なんてちっとも思いつかねぇ……。
――ゾクリ。
どこからか俺を視ているような、ねっとりした視線を感じた。とっさに周囲を見渡す。手足の鎖がガチャガチャと鳴る音がひどく耳障りだ。
回廊の向こうから兵士が戻ってきた気配はない。このフロアには小部屋がいくつか並んでいるものの、一番手前に入れられた俺には、奥に別の囚人がいるかは分からない。
……ちくしょう、何だっていうんだ!
これがプレッシャーってヤツなのか? 俺は弱気になってんのか?
心の声に応えてくれたのは、「キキッ」という微かな鼠の鳴き声だった。その後は完全なる静寂が続く。それでも誰かに見られているという気持ち悪さは消えない。
よもやこの部屋には、『監視』の魔術でもかけられているのだろうか。
糞尿と死臭がこびりついたこの場所へは足を運びたくない、でも罪人がどんな末路を迎えるのかは見届けたい……そんな悪趣味な権力者がいるのかも。
何もかも分からないけれど……ヤバい、と感じる。
直感が、これ以上ないほどの警報を鳴らす。
もしかして、俺はとんでもない失敗をしたんじゃ――
「お手を煩わせて申し訳ありません。どうぞ、こちらです」
緊張を孕み硬くなった兵士の声が、回廊の奥から響いてきた。そしてカツカツと石畳に踵を鳴らす音が四人分。
俺にとってその足音は、絶望の中に差し込む一筋の光だった。
『枢機卿』
その名が漏れ聴こえたとき、俺は安堵の息を吐いた。忌まわしいこの場所から出られるのだと。
兵士の一人が俺に近寄り、ランタンの明かりをこちらへと掲げる。暗闇に慣れていた目には刺激が強過ぎるものの、決して目を瞑らずに耐える。
極限まで細めた視界の隅に、枢機卿の顔が映り込んだ。
四十歳くらいの太った男だ。
肉に埋もれた細い目と、弛んだ顎。樽のような身体を純白の法衣に包み、肩には深紅のボレロをかけている。そして頭には平たく潰したコック帽のような白い帽子。奇妙としか言いようがない格好だけれど、これが彼にとっての正装なのだろう。
「では、始めましょうか」
枢機卿が発した声は、外見に反して重々しかった。
一階の牢屋番である二人の兵士は頭を下げ、ランタンと共に鉄格子の向こうへ。独房の中には、後から加わった大柄な兵士と枢機卿だけが残った。
逆光に浮かび上がる枢機卿の姿は陰鬱な影を纏い、『聖職者』のイメージとはズレていた。
隣に佇む兵士もそうだ。ぎょろりとした目はやたらとギラついていて、恵まれたこの街の公務員にはそぐわない。
湧きあがる警戒心は、自ずと俺の目つきを悪くさせていたらしい。兵士は腰に挿していた一メートルほどの棍棒を持ち上げ、躊躇無く俺の頬を打った。
「――ッ!」
口の中が切れ、血反吐が溜まる。それを足元にペッと吐き出しながら、俺は兵士を見据えた。
従順な犬を演じることはもうできなかった。殺気を滲ませながら睨みつける。
愉悦を隠しきれないねっとりした視線が、巫女様を襲った盗賊たちと重なる。
抵抗できない相手をいたぶって喜ぶ兵士なんて、本当に趣味が悪い。まあ本人にとっては天職なんだろう。
再び棍棒が振り上げられたとき、横から意外な声が飛んだ。枢機卿だ。
「まあ落ちついてください。貴方も素直に真実を打ち明けてくださるなら、このような痛い思いはしないですむと約束しましょう」
大仰に両手を広げ、にこやかな笑みを浮かべる枢機卿。その瞬間、肉に埋もれた細い目が妖しく光った気がした。
「さて、大事な質問をします……貴方はディアスキア共和国の間諜ですか?」
「んなわけねぇだろ!」
叫んだ直後、鳩尾に突き刺さった棍棒。思わず胃液を吐いてしまう。さっきの血反吐と混ざり合い、嫌な臭いを増幅させる。
それでも枢機卿は、柔和な笑みを浮かべて質問を重ねた。
「ではなぜ貴方は、ディアスキアの軍人の証を所持していたのですか?」
「奪ったんだよ、俺を拉致ったヤツから!」
「貴方はディアスキアの者に拉致された、とおっしゃるのですね。それはなぜです?」
「俺が、チョコの弟子だからだ。あいつらはチョコを陥れるために……」
チョコの〝弱点〟である俺を狙った、とハッキリと口に出すことはできなかった。
悔しさと情けなさで涙が滲んでくる。それを拭いたくても、拘束された腕は動かない。
「チョコ・ル・アート嬢の弟子、ですか。たいそうなほら話ですね……と言いたいところですが、確かにおっしゃる通り、貴方の主張は証明されました。先日チョコ嬢と共に、貴方に似た人物が国境の村を訪れたと、村民たちが確かに証言しましたよ」
枢機卿の台詞に驚いたのは俺だけじゃなかった。牢の外に出た二人の兵士も大きく息を呑む。
ただ牢の中に残った大柄な兵士と、その情報をもたらした枢機卿は……決して笑ってはいない。
「では次の質問をしましょう。貴方が拉致されたと見なされる四日前の夕刻、チョコ嬢は一度国境の村へ立ち寄ったようです。そして村人に奇妙な質問をされました。『人が一人入れるほどの、黒い布袋を持った男を見なかったか』と。それは何を指しているのですか?」
「すげー頑丈な布で作った巾着袋があるんだよ。魔術も攻撃も、光も音も全部跳ね返す。俺はそん中にぶちこまれて、馬車で西へ運ばれたんだ」
「ほぅ、そのような袋の中に閉じ込められては、さぞかし脱出するのも大変だったでしょうねぇ……」
「そ、れは」
一瞬、迷った。
俺の特殊能力ともいえる箒化のことを、コイツに言ってしまっていいのだろうか……?
「証拠品として預かった布袋で、試させていただきました。この街の警備隊長に袋の中へ入っていただき、中から脱出できるのかを。貴方のおっしゃる通り、魔法も効かない、武器も歯が立たない、光も声も届かない……彼は『気が狂いそうになった』と言っていましたよ。そんな袋から脱出した上に、翌朝には五体満足でこの街へ現れる。しかも一年は遊んで暮らせる大金を持って。不思議ですねぇ」
「違う、俺は――」
そのとき、俺の頭には自然なロジックが組み上がっていた。
袋から強引に脱出したわけじゃない、誘拐犯が俺を一旦外に出そうと袋の口を開けた、その隙をついて脱出したのだと。
そう主張しようとしたのに、できなかった。突然喉の奥に痰が絡んだみたいになって、息が詰まって。
むせかえり、ゲホゲホと咳込む俺の耳元に妖しい囁き声が届く。
「――嘘はいけませんよ?」
ゾクリ、と悪寒が走った。