第七話 対話
若い男が一人森の中に佇む。
禁足地間近の共同の縄張りでテンは困っていた。シメオンと名乗った少年が居ないのだ。昨日少年と別れたのは確かにこの場所だった。訪れる目安の時刻も別れ際に告げた。
周りの地面を調べて昨夜はここで夜明かししたのも分かっている。数刻(数時間)前までこの辺りに居たのだろうに、半刻(三十分)ほど待っても姿を現さないのは――――。
眉根を寄せて溜め息をついたテンは、小脇に抱えていた布包みを近くの木の根元に置いて踵を返した。ほどなく名を呼ばれ、声のした辺りを見上げる。少年は樹上に居たのだ。
「いま下りてく」
枝から顔を出した少年は、幹や枝を上手く使って下方へ移動する。最後に最も下の枝に乗ると、そこへ両手でぶら下がってから地面に下りた。しかし、その場からは動こうとせず、テンとの間に数メートルの距離があった。
「歩いてくるのは見えてたんだけど、一人かどうかわかんなかったし……。今日は剣を持ってるみたいだったから」
腰の横に突き出た柄から肘を下ろしたテンは、未だ緊張を解かない小柄な少年に苦笑している。
「用心深いのは好い事だ。ちゃんと言い付けを守って火も起こしていないようだな」
暑い夏の今時期ならさほど困らないからと、テンはシメオンに火を使う事を禁じた。煙や臭い、焼け跡から、存在するはずのない少年の所在を知られる可能性がある。火の不始末から山火事になる恐れもあるので、きつく言い含めてあった。
「それと、これは剣じゃない。鉈だ」
「ナタ?」
「武器としても使えるが、俺たち狩り人が必ず持つ道具の一つだ」
柄を留めていた紐を指で外す時も、鉈を革鞘から抜く時もテンはゆっくりと動いた。少年が見やすいように伸ばした二本の指で柄を挟んでぶら下げる。
すぐには分からなかったシメオンも、それには見覚えがあった。真っ直ぐで両側に刃のある、ありふれた形の剣とは違う。テンの持つ『鉈』は刃が片側にしか無い。確か藪や柴を刈るのに使うものだ。
細長い金属の板みたいだと少年は思った。
「村では武器の携帯が……、持ち歩くのが禁止されているから、剣は殆ど無いぞ」
「そうなんだ」
「武器を常時身に付けるのが許されるのは巫女を守る衛士だけだ。外から村へ入る者たちも武器は全て役所に預ける決まりだし、隠し持っていたのが分かれば罰せられる」
「……ええと、それなのにオレはナイフを持ってても良いワケ?」
シメオンは少し不安になった。切れ味の鈍ったなまくらだが、そんな物でも無いと不便なのだ。眉根を寄せたテンに「あの程度なら許される」と素っ気なくと言われて胸を撫で下ろした。
構わないと言っている割に不機嫌なテンよりも、持って来た手土産の方が気になってしまう。
鉈を鞘に収めたテンは一度置いた包みの傍に腰を下ろす。膝の上で開いた布の中から、少年にとってはご馳走と呼ぶに相応しい品々が見えた。
「まだ完全に冷えてはいないな。腹が減ったろう、早く食べるといい。その間に話があるんだ」
―― ◇ ――
「それで、ハナシってなに? 村であったさわぎのこと?」
テンの持って来た食料を順調に減らすシメオンの声はくぐもっている。
大人しくしていろと言われたが、日がな一日この場にじっとしているのは不可能である。周囲に注意しながらぶらぶらと森を散策した。
人にも獣にも出会わずすぐに散歩に飽きると、ある方向へ足を向けた。幸いかなシメオンの方向感覚はしっかりしており、村を目指しても見えない道を反れて迷う事は無かった。
ただ遠くから覗くだけのつもりだった。しかし広場に集まった人々の様子がおかしく、何かあったのだとすぐに察しがついた。詳しく知りたいとも思ったが、匿われた身で村人に聞ける訳がない。その時は場を離れ、見知った相手にこうして尋ねているのである。
昨日相対した時と違い、テンは困っているように見えた。自分を助けた事を後悔しているのだろうか?
「お前にとってまずい事に、商人の息子が怪我をして暫く村に逗留する事になった」
荷馬車を御していた若者の背中が少年の頭に浮かぶ。
「死にそうなの?」
「あばらと片足を折ったが命に別状はないようだ。それでも馬車の揺れは傷に障るから旅には連れて行けない。スリニエッグは家族をここに残して、治療と滞在の費用を稼ぎたいと言っているそうだ。荷を減らして馬車一台分にすれば一人でも商売は出来るらしい」
「えっ、でも、それって――――」
「荷台はぎゅうぎゅう詰めでお前が隠れる隙間は無いな」
「きた時と同じにってのはむりなんだね。……そんでオレはどうすりゃいいワケ?」
「俺の指示に従うのか」
少年は口の中のものをもそもそと飲み込んだ。シメオンの素直な態度はテンには意外だったようだ。
「今のオレはアンタに助けてもらってるミノウエだもん。とりあえず言う通りにはするよ。だけどそういうのを教えてくれるってことは、どうやって出て行くかも考えてくれるんだろ」
「まあ、そのつもりだったが……」
どうやら説得に手こずると思っていたらしい。少し打ち解けた感じがするのは、少年が言い付け通り身奇麗にしたからか。
付き合いは短いがシメオンは何となくテンという人間が分かってきた。
この男は人が好い。馬鹿正直に食事をたんまり運んで来たのがその証拠だ。ただし盗みをした時のように、ある一線を越えれば厳しい態度に出る。テンの決めた範囲を守っている限り「いいひと」でいるはず。
どうせ走って逃げてもすぐに捕まるのだ。自分に追い付けるのはテンだけではないようだし、わざわざ怒らせる理由が無かった。
「ねえねえ、これうまいね」
「包み焼きは俺も好きだ。……そうだ、明日はここに来るのが遅くなる。暗くなってからになるが必ず顔は出す」
「ちょっと、そういうのは早く言えって!」
「す、すまん」
「とっとかなきゃならないのに、ぜんぶ食っちまうとこだった。あ、ねえねえ。あしたはパンをわすれないでくれるとうれしいんだけど」
テンは既に食事を済ませており、弁当はシメオンのためのものだった。それを聞いたシメオンが改めて品定めをすると、パンは切れ端すら存在しなかったのだ。
「まさかこれを全部一度に食うつもりとは思わなかったぞ」
「食える時にまとめて食っとかなきゃ! これうまいし、なんか、すごくハラがへっていくらでも食えそうなんだよね」
眉根を寄せたテンがシメオンに訝しげな視線を送る。
「パンが足りないなら芋で腹一杯にしろ」
「なんだよそれ。シカは良くてパンはダメなのかよ」
シカ肉は普通は口に入らない。しかし祝い事には欠かせない食材なので、少年も金持ちが通行人に振る舞うおこぼれに預かった事がある。その時の味に似ていたので、炙った薄切り肉がシカだと見当を付けたのだ。
そんな珍しい物が簡単に手に入るのに、パンは買えないとでも言うのだろうか。
不満げに口を尖らせるシメオンを宥めるテンからは少々の優越感が漂っていた。
「ここではシカを使った料理は当たり前だ。食堂でも普通に食える」
「え? どうして!? あっ、アンタたちが狩るんだ!」
「肉の良い部分は街に売るからその残りが多いが……。昨日渡した干し肉も一応シカだぞ」
そういえばそんな事を聞いたような気もする。今まで食べた干し肉と味が違うのも納得だ。
「パンに使う小麦粉は貴重だから、芋で腹を膨らすんだ」
不作で食い詰めた農民も、パンに使う小麦粉が買えない時は茹でた芋や何かの根を食べていた。
「そっか、しかたないね」
シカを売って小麦粉を買う。聡い少年はすぐにそれを理解した。茹でて潰した芋を焼いたものを齧る。美味い。他の料理も美味かった。まともな物が食べられるのだから贅沢は言うまい。
「そういやさ、商人の若いのはなんで骨を折ったの?」
「世話をしている最中の自分の馬に蹴られたんだ。普段は大人しくて懐いていたらしいが、馬が何かに驚いて急に暴れ出したとか――――」
それから毎日テンは少年に食事を届けた。そして、それを食べている間は横に座って話をしていく。星月の明かりの下で少年の相手をし、次々と沸き出る質問に答えた。
茜色の夕暮れの中を沢辺まで共に歩きながら、食に向くものと避けるべき植物について教えられた。狩りで獲物を仕留めた時の達成感や、狩り人になるための厳しい訓練を積む意味に耳を傾けた。
五日が過ぎて少年が日暮れを待ち遠しく思うようになった頃、テンがシメオンに告げた。
「明日は朝のうちに顔を出す。今夜はしっかり休んでおけ」
「なんで?」
「女たちがこの縄張りへ収穫に来る。こんな奥まで足を伸ばすとは思えないが、念のため別の場所へ移動しよう」
少年は一も二もなく頷いた。
「沢を渡って向こう岸へ行く。……それとも、もう行き飽きたか?」
「あきてないよ。アンタが行くなって言ったんじゃないか」
シメオンが集めた野草を調べ、全て食べられる物だと保証した。嬉しそうな少年に吊られたテンの表情も綻ぶ。
「こちら側とはまた違うものが生えているし、運が良ければシカに遭えるかもしれないぞ」
「うわぁ……、すげぇ! ねえねえ、あっちはシカが多いの?」
「ん……、まあ……、シカが多いと言えば言えなくもないか」
珍しく言葉を濁すテンを不思議そうに見返したシメオンは、自分の耳を疑った。
「沢向こうは東ガラットの中でも最も豊かな場所の一つで、巫女の縄張りだ」
夕暮れの森を風が吹き抜けた。