第五話 真実
夜の森はどこも同じように見えた。しかし、少年は物怖じせずに初めての場所で歩を進めていた。薄雲が月を覆っているので、辺りはぼんやりした明かりで照らされている。
真っ直ぐにしばらく行くと、大中小と三つ並んだ岩があった。教えられた通りの目印である。この岩に着いたら身体の向きを左斜めにして、また真っ直ぐ進む。
ほどなく湿った匂いと水音を感じ、次いで流れが見えた。石のごろつく地面を横切って沢に近付く。もちろん、辺りに人影が無いのは確かめた。
黒い男――――テンはシメオンに幾つも注文を付けたが、まず最初に、鼻の曲がりそうな臭いを落とせときつく言い渡された。
「陽が落ちれば沢は人気が無くなるから、そこで服と身体を洗って来い。ただし、中央は流れも速く深い。絶対に行くな」
沢の幅は大人の男の背丈二人分くらい。所々にある段差は小さな滝のようになっていた。滝や突き出た岩に当たる水が砕けて、夜目にも白い飛沫を上げている。
離れて見ていると、沢の真ん中の深さはよく分からなかった。しかし、もし足を取られたら、身体の小さい者には危険なのだろう。
沢岸には、点在する大小の岩で本流と仕切られた場所があった。上流と下流が沢と繋がっていて、緩い流れのある細長い水溜りになっている。
沢の流れと平行する水場の傍らに、表面に溝が彫られた洗濯用の板が忘れられている。ここは洗濯用の洗い場として利用されているようだ。
なるほど。汚れた水は少しずつ入れ替わるし、流れに衣類をさらわれたりもしない。洗濯にはうってつけなんだ。
全裸になった少年は、深さ三十センチほどの水場の真ん中に座り込むと、手で水をすくって顔を洗う。水は冷たくてとても気持ちが良かった。
屈んで頭を水に浸けると猛烈な痒みを覚え、両手で頭を掻きむしった。洗い砂や高価な石鹸など持っていない少年は、皮脂や得体の知れない汚れで絡んだ髪を清流でひたすら濯ぐ。
時々髪に指が引っ掛かって少し痛かった。水の中で頭を振ったりしながら、気が済むまで指で地肌を擦り、髪を梳いた。
やがて少年は身体を起こし、顔に張り付く髪を掻き上げた。いつの間にか邪魔なくらいに伸びている。後ろは肩より長くなっていたし、摘んで引っ張った前髪の毛先はあごに届いた。
前髪を手櫛で後ろへ撫で付けると、もつれた髪や汚れが隠していた少年の顔が晒される。柔らかい印象の輪郭に賢そうな眉や額、微かに目尻の釣り上がった目などが体裁良く配置されていた。整った面差しは、御伽話に出てくる悪戯好きな小妖精のようだった。
滑らかな頬に張り付く癖の無い黒髪は、濡れていなくても美しい艶を放つのだ。愛くるしい容貌と、男として成長する前の細い肩や腰に、昏い欲望を抱く者も少なくないだろう。
少年はポケットの奥底で見付けた小布を濡らして、ごしごしと身体中を擦り出した。皺くちゃの小布は赤茄子の他にも何かの染みが付いていた。それを何度も濯ぎながら、痩せて肋の浮いた貧弱な身体を洗った。
さっぱりとした少年は、忘れ物の洗濯板を使って服を洗う。慣れた手付きで洗い終えると、濡れた服を身に着けた。洗濯板は元の場所に置いておく。
いくら人気の無い時間帯と言っても、見通しの良い所に長居は無用である。ポケットの中身を水の滴る上着で包んで小脇に抱えた。靴を別の手に持ち、裸足で歩いて帰路に着いた。
沢から森に入ったら少し左よりに進む。しばらくすると少年の腰くらいの高さの茨の低木があった。葉と棘が白っぽく見えるので、薄明かりでも他の草木と区別が付く。
数メートルおきにこの茨が生えて――――いや、禁足地の境として意図的に植えてある。茨の帯を左に見ながら歩くと、見覚えのある場所に戻った。
沢辺からここまではゆっくり歩いて半刻(三十分)足らず。着ていた服は体温でかなり乾いていた。濡れた上着は枝に広げて干した。
まだ濡っぽいズボンの尻を木の根に乗せて、テンの事を思い返してみる。今のところテンの言葉に嘘は無かった。水場への道のりも、元いたここへ戻るときの案内も真実だったのだ。
テンによれば、この辺りに危険な獣はいないので、野宿しても大丈夫らしい。しかも共同の縄張りの中でも禁足地に近いので、村人も余り来ないという。
やはりあの男の狙いについて疑問が残る。見ず知らずの自分を助ける理由は何だろう?
テン――――他人が欲しがりそうなものについて考えてみた。
金か、いや、違う。持ち物を調べたのだから、金持ちと正反対なのは分かったはずだ。硬貨の入った小袋も取り上げなかった。
身体。それなら捕まえてすぐに好きにできたはず。それどころか怪我の心配までしていた。これも違う。
売り飛ばして金にする。やっぱりこれも違うだろう。奴隷商人に売るなら、助けたりしないでふん縛ってしまえば良いだけだ。
いくら考えても答えは見付からなかった。分からないものにこだわっても仕方がない。どうせこの村にいる数日だけの付き合いなのだから、難しく考えないようにしようと開き直る。
それよりも――――。
シメオンは身体がおかしいと感じていた。テンから逃げた時に思い切り走ったが、今まであんなに速く走れた事は無かった。出来たとしてもほんの少しの間だけで、その後数刻(数時間)は疲れて動けなくなるのだ。
ところが、今日は足がだるくなっただけ。テンと話していた半刻(三十分)の間にその疲れも消え、かえって身体の調子が良かった。
手の平を見詰めていた少年は、再びテンの様子を思い出してみる。必死に走った自分と違って、テンは少し汗をかいただけだった。本気を出してもいないのだろう。
大人と子供、体格差以外にも何かがある。きっとテスの狩りに関係する事に違いない。
テンが教えてくれるかは分からないが、これだけは無理をしてでも聞き出したかった。好きなようにあの走り方が出来れば、食べ物を手に入れるのもずっと楽になる。
それに、もしかしたら他の……、一番知りたい事も分かるかもしれないじゃないか。
知りたがりと評された少年は空を見上げた。黒々とした枝葉の切れ目から見える星の帯は、街や別の村で見たときよりずっと近くに思えた。手を伸ばせば掴めそうな気さえしてくる。
夜空に輝く星々のように、少年の好奇心は尽きなかった。