第三話 邂逅
本当にテスの村は不思議だった。
村の裏手へ回るつもりだったのに、ふっつりと柵が途切れたのだ。村の入り口の風景を思い出してみると、門を中心に半円形に囲っているらしい。つまり、街道の方向しか警戒していないのだ。
既に家屋は無く、このままだと更に山の中へ向かう。小高い丘を裏山と呼ぶ程度の可愛らしいものと違い、本当の意味での山と森。農村地帯よりも太く背の高い樹々の間に暮らす獣たちは、テスたちにとっては敵では無いようだ。
柵の内側を辿って戻るまでに、作業場らしい小屋もいくつかあった。人の出入りが無いように見えたが、用心してそばには寄らなかった。また臭いで気付かれるのも嫌だった。
民家では人が居ないのを確かめて食料を物色する。それを何度か繰り返して、あちこちから少しずつ分けてもらった。
空っぽだった水筒には、台所に汲み置かれた甕の水を詰めた。途中の井戸は広場に近く、数人の先客が順番待ちをしていたので素通りしたのだ。
冷めて固くなった炙り肉の欠片や野菜で、あちこちのポケットが重く膨らんだ。パンやチーズは見付からなかったが仕方ない。今日のところは欲張って長居しないように気を付ける。
目を付けておいた小屋の裏で、誰にも見咎められずに腹を満たした。その後、風通しの良い床下に潜り込んでごろりと横になる。小屋は床と地面の間に数十センチの隙間が空いている。大人には狭くても、痩せた子供にとっては恰好の隠れ場所だった。
ここは食料の貯蔵庫らしく、微かに食べ物の匂いがしている。床板の合わせ目から、塩漬け肉らしい樽底を見上げた。
小屋の扉は錠が掛けられていた。もし中に入れたら塩漬け肉がたんまり手に入るのに。
他愛の無い事を考えながら涼んでいると、何やら人の声が聞こえてきた。扉の前には小さな縁台と庇があり、空の樽や木箱が置かれていた。
少年は静かに入り口の方へ這い進む。板を渡した階段の陰から男たちの足を数えた。四人は運んで来た荷物をどさどさと縁台に下ろした。
「何だよ、錠が掛かったままじゃねえか。これをしまえば今日の仕事は終わりだってえのに」
「行商のスリニエックが来てるから、目ぼしい物が無くなる前にオレも行きたいな。……なあ、とっととサイリーを呼んで来いよ」
「どうしておれに……。兄貴が自分で行けば良いだろう」
「残りを運んでおこうぜ」
一人は広場へ、残りは元来た方向へと向かう。縁台の縁から巾着状になった袋の口が垂れ下がっていた。少年がそれを掴んで階段の陰に引き込む。別の袋がとさりと地面に落ちた。
一番後ろの男が足を止めて振り返る。
「……袋が。先に行っててくれ」
少年は干し肉の袋を胸に抱いてそっと後ずさった。奥まで下がって息を潜める。
連れに声を掛けた男が袋を拾おうと屈んだ。膝をついて、ふと呼ばれたように横を向いた。床下を覗き込んだ目が驚きで見開かれる。
目が合った!
そう思った刹那、少年は床下から飛び出した。男に背を向けて力いっぱい走り出す。
畜生……、何でこっちを見んだよっ!
干し肉を抱えて声にならない悪態をつく。後ろを振り返らずにひたすら走った。それなのに――――。
「待て! 逃げるな!」
真横で叫ばれて今度は少年が驚いた。
「う……、そ……!」
逃げ足には自信があった。今までにも盗みを失敗って逃げたが、本気で走って追い付かれた事は一度も無かったのだ。
しかし、ここは街の裏路地とは違う。密集した建物が迷路のようになってもいないし、相手をやり過ごすために隠れる小路も無かった。
……振り切るしかないや。
幼い顔に不敵な笑みを浮かべた少年が大きく息を吸った。吸ったモノを足に集中させて地面を強く蹴り、樹々をすり抜けた。
少年は常人には不可能な速さで走っていた。
―― ◇ ――
身体が軽い。まるで自分が風になったような不思議な気分だった。一歩ごとに身体の中から力が涌いてくる。感覚も鋭くなり、過ぎ行く風景もはっきり見えた。
木立ちの間を駆け抜けるのは、大通りの人混みをすり抜けるのに似ていた。左右に移動しながら木や岩を避けるのだ。動き回る人間よりも、じっとしている樹木の方がずっと楽だった。
一跳びで超えられない低木の茂みは木を使って渡る。これは飛び石と壁蹴りを併せたもの。木の幹を蹴って地面に対して横向きに走った。
地表へ張り出した木の根を避けるために、大きく跳んで腕を横に振る。錐のように身体を捻って足をつき、何事も無かったように走り続けた。
流れるような所作に停滞は無かったが、少年の表情は曇っている。まだ『あの男』を振り切れていなかったのだ。数メートル後ろをぴったりと付いて来ている。
「そっちへ行くな! 戻るんだ!」
戻れと言われてその通りにする訳が無い。
それよりも、少年が気になったのは男の走り方だった。腕の力を抜いて前屈みの姿勢を保ち、前に跳ぶような『走り方』。自分以外に出来る相手は初めてだった。
あの男もアレが出来るのだとしたら、とてもマズいのではないだろうか――――。
いつもよりはっきりと物が見えるからと言って、注意を払っていなければ意味が無い。不安から集中力が途切れ、足元が疎かになった。
ぐらつく石を踏んだ少年の姿勢が崩れる。つんのめって身体が浮き、肩から地面に落ちそうになる。咄嗟に手をついてとんぼを切った。しかし、少年の身体は勢いを失わず、半端な体勢のままだ。
「やば……っ!」
宙を泳ぐ先の木の幹がやけに太く見えた。ぶつかったら痛そうだと思った刹那、唐突に視界が流れた。足を掴まれて横に放り出されたのだ。何も無い場所を狙って投げたと教えられたのは、もっとずっと後の事だ。
今度は地面が眼前に迫る。背中を丸めて腕で頭を庇った。落下の衝撃と痛みで息が詰まる。柔らかい土の上で弾んだ少年の身体は数回転がって止まった。
息つく暇も無くうつ伏せにされる。両腕を背に回され、手首を合わせて掴まれた。少年を組み敷いた男は、背後から少年の耳元に顔を寄せた。厳しい口調で問い質す。
「動くな。暴れたら腕を折る。俺の質問に答えろ」
「……痛っ! これじゃうごけるわけないだろ!」
男は少年の腕だけで無く、腰に脛を乗せて身体全体の動きを封じている。
「お前は誰だ。一人か? 何故ここに居る」
「…………」
唇を固く結んだ少年は何も答えない。男はもう一度同じ言葉を繰り返すが、やはり少年は黙っていた。「仕方ない」と、溜め息を一つついて少年の身体をまさぐり出す。
「ちくしょう。やめろ……っ!」
少年の抵抗も虚しく、服の上から脇腹や腰を撫で回しているのが感じられた。男の吐息が耳に掛かった。肌が粟立ち悪寒が走る。男の手が尻の辺りで止まり、少年の上着を引っ張って捲ろうとした。
「……おい、お前――――」
少年の視界が真っ赤に染まった。
脳裏にありありと恐怖が蘇る。腕を、身体を押さえられた時の絶望。焼け付くような痛みと屈辱。
今の自分と重なる過去。
「やめ……」
息が吸えず苦しかった。やっとの事で搾り出した声は震えていた。
男がはっとして身を起こした。ややあって話し出した男の口調は固かった。
「どこか怪我を……、痛みは無いか? 腰の所が濡れているのは出血しているからか?」
「……腰?」
無意識に男の言葉を繰り返す。言われてみれば腰から尻に掛けてズボンが湿っている。しかし、痛みは無い。いや、地面にぶつかってあちこち痛いと言えば痛いけど――――。
「……あ、赤茄子だ」
「赤茄子?」
今度は男が少年の言葉を繰り返す。首を捻じ曲げた少年が後ろの男に向かって言った。
「上着のポケットに入れてたんだ。ころがった時につぶれちゃったんだと思う」
指に付いた液体の匂いを嗅いだ男が息を吐いた。どうやら安心したらしく、口調が淡々としたものになっていた。
「武器を持っているかどうかを調べる。もし、ひどく痛む所があるなら言え。抵抗はするな」
震えは止まったがザワザワする心中は収まっていなかった。黙っていられず、少年はぶつぶつと呟き続けた。
「武器なんて別に……。小さなナイフしか持ってないよ」
「人を傷付ける事は出来る」
まあね、と少年は心の中で舌を出す。
男は丹念に身体を調べ、上着の隠しや服の中から色々な物を探り出した。小銭の袋や食料は横に置き、見付けたナイフは手に持ったままだった。少年を起こして座らせると再び警告した。
「抵抗するなよ」
拘束を解いた男は、少年の向かいに立って見下ろしている。
少年は自分を捕まえた男を上から下まで眺めた。年齢は十七、八くらい。思ったよりも若かった。
髪も目も、おまけに服まで黒い。肌も日に焼けていて、身体を使うのに慣れている感じがした。ひょろりと背が高くて、剥き出しの両腕も細く見える。でも、腕と同じで身体にもしっかりと筋肉が付いていそうだ。
コイツはただ力が強くて丈夫なだけの農夫なんかじゃない。たぶん訓練された兵士なんだ。
男には少年にそう思わせる雰囲気があった。
「今度こそちゃんと答えてもらおう。お前の名と、何者かをな。何故ここに……、東ガラットに居る?」
「…………人になにか聞くなら自分から言えよ」
仏頂面でじろりと睨み、精一杯の皮肉で答えると、男が苦笑した。
「そうか……、そうだな。ならば俺の方から名乗ろう。俺の名はテン。この東ガラット村で狩り組の一つを任されている頭だ」




