第十二話 発露
テンの号令で人のものとは思えない声が辺りに響いた。近くに野犬か、話に聞く狼でもいるのかと慌ててしまう。ぎょっとする少年を他所にテンが大声で数を数え始める。
「一! 二! 三!――――」
呆気に取られたのは一瞬だけ。合図だと悟ってすぐに大地を蹴った。狩り人が普通に『走って』一刻(一時間)の空き地。丸くて平たい岩が目印のあるそこがテンに指定された終着地だった。
森の木々は生えている間隔がまちまちで、大きな隙間を幾つも過ぎる。賭けは始まったばかりだが何度も方角を確かめた。
散歩と軽い朝食を済ませておいて良かったと心底思う。おかげで身体がまだ走るのを覚えている。少年はまだ〈恵み〉の力を上手く使えないので、尻上がりで調子が上がっていくのだ。
全速力で走り続けるのは無理でも、その少し手前の状態でならかなり長く保てるようになっていた。上着で包んだなけなしの荷物と、中身を半分にした水筒は帯代わりの飾り紐で腰に巻き付けてある。こうすれば両手が自由に使えるので、姿勢を保つのが楽になる。
狩り組が縄張りとしているのは、北西の森のうち村に近い地域である。シメオンはテンが腕で方角を示した時に、身体の向きと影の角度を覚えておいた。迷わない自信はあったが、用心するに越した事はない。
進行方向の狩り組は殆どが非番なので、余程方向を間違えなければ縄張りを横切っても平気だと言う。抜かりなく調べている手際の良さに更に腹が立った。
「飛び道具を使って怪我をさせたり、先回りして待ち伏せたりはしない。ただ追いかけて捕まえるだけだ」
テンの言葉を思い出したシメオンが苦笑した。賭けとして成立するように、彼らは十分過ぎるくらい手加減しているのだ。
条件を聞きながら頭の中で色々と考えたが、少年の出した答えは簡単だった。徒党を組んだ相手は必ず頭数に任せて囲み、それを少しずつ狭めて逃げ道を塞ごうとする。街中の入り組んだ路地と違って森なら幾らでも自由が利くが、それは追う者追われる者、どちらにとっても同じである。
追っ手の目をくらます事も考えたが、それでは回り道の分だけ余計に疲れてしまう。どうせ速度も体力も叶わないのなら小細工は無駄だと、目指す場所まで真っ直ぐ駆け抜けてしまう事にした。
二度目の合図は感覚そのものに訴えるようだった。耳ではなく、肌で感じると言うのがぴったりだ。銀目の男がしているこの遠吠えも何かの能力なのかもしれない。込められた意図は読み取れないものの、はっきりと意志のある叫び。四人の獣が狩りを始めたのだ。
風景は緑や茶色の帯のように前から後ろへと流れた。そんな中でも注意して避けるべき障害物がはっきり判る。運動能力と共に他の感覚も研ぎ澄まされていた。
数日過ごした村近くとも、大事にされている巫女の地とも異なる森。ざっと見た限り、狩り場に生えている植物も人の手が入っていないようだ。
テスの森での野宿は、傷付き飢えていた少年を癒した。昼の山に木霊する賑やかな蝉の声や鳥の羽ばたき。陽が落ちればまた別の虫や沢辺の蛙の歌。涼風にそよぐ木々の枝や葉が擦れる音は、夜空を埋める星の瞬きと共に妙なる楽の音のようだった。
可能ならばこんな風に追い出される事なく、穏便に東ガラットを発ちたかったと思う。
そうすれば――――。
どうだったと言うのだろう。またテンに会えるとでも思っていたのか。そんな事は有り得ないのに。
長居出来ないのは分かっているつもりだった。それでもなお、山の実りを分けて貰う日々を、少年はとても気に入っていたのだ。一人の人間として過ごしたテンとの十日間は毎日が楽しく、日を追うごとにその思いは強くなった。
あれほどテンに腹が立ったのも裏切られたと感じたからだ。もし自分がテスの地に生まれていたら、テンと友だちになれたのだろうか。
元の暮らしに戻るだけなのに何故か胸が苦しくて仕方なかった。何時も狭い片隅で息を潜め、神経をすり減らして人の気配に怯えていた。自分の居場所も無く、名を呼び合う友も居なかった。
今が夏で良かったと思った。止め処なく流れる汗が何もかも洗ってくれるように願う。
風が涙を吹き散らした。
―― ◇ ――
半刻も走り続けると、足より先に履き古した靴が音を上げた。薄くなった靴底を何かが突き通したようだ。これ以上痛むと走り辛くなる。
少年のうなじがぴりぴりしだしたのはその時だった。これを感じる度に攫われそうになったり、追い剥ぎに狙われたりと必ず危ない目に遭った。少年は自身へと向けられた視線や意識に対して敏感だった。見渡せる範囲に人影は無いものの、追い付かれたと確信する。
テンは弓も使わず待ち伏せもしないと言っていた。その言葉を信じたい心情にシメオンが苦笑する。しかし、己を皮肉っている時間は短かった。
強い敵意を感じて反射的に腕を上げた。シメオンの左腕を掴んだのは涼しい顔をしたカクだった。二人の目が合った。にやりと笑ったカクがもう一方の手を上げる。肩に伸びた腕を咄嗟に掴んだ。互いに腕を掴み掴まれたまま束の間併走する。
カクが更に意地の悪い笑みを浮かべるのを見た少年が先に仕掛けた。横に跳んで次の一歩は無理やり身体を前に押し出す。腕ごと強く引かれたカクの上体が泳いだ。目前に太い幹が迫る。
体勢を崩したカクが手を離すと、シメオンもカクを解放して加速する。障害物をかわして速度の落ちたカクを置き去りにした。
「このガキ……!」
悔しそうな声だけが少年の背にぶつかった。
息つく暇も無く右後ろに気配が湧いた。そちらへ首を向けると、今度は金髪の大男が数メートル横にいた。どすどすと地響きを立てそうなものだが、力強い足並みは軽快で重さを感じない。
大男はちらりと周りを見てから少年に接近した。一瞬で後ろを取って太い両手を突き出す。速度を落とさず足運びを調整したシメオンは、自ら半歩だけ大男に近付いた。伸ばした太い腕の間に入った首をぐいと反らす。
「うおっ!?」
目前に迫った少年の頭に、頭突きを覚悟した大男の身体が強張る。その隙に男の右手を叩き上げたシメオンは脇目も振らず逃げ出した。
胸の鼓動が静まらないのは緊張のせいだと思いたかった。こんなに長く祝福を使い続けたのは初めてだった。体内に溜まった熱と疲労で頭がくらくらする。足の痛みが無ければとうに意識が飛んでしまっていただろう。
地を蹴る度に右足が痛んだ。しかし、本能が訴える危機感も健在である。傷を確かめる余裕は無いのだ。進路へ目を向け、痛みに邪魔されながら耳と勘で周囲を探る。
少年の行く手に、忽然と黒い影が舞い降りた。膝を曲げ、深く腰を落として着地した二人の間は五、六メートル。全力で真ん中を駆け抜ける。数歩先んじた少年に、狩り人たちは一跳びで追い付いた。
先の二人が失敗したのを樹上で見ていたのだろう。確かにテンは樹渡りをしないとは言わなかった。賭けの終盤になっていよいよ組頭のお出ましらしい。
静かな表情のテンを見たシメオンはかっとなった。怒りが苦痛を忘れさせる。左を銀目の男、右をテンに挟まれた少年は蛇行して振り切ろうとした。もっと早くと念じながら足に〈祝福〉を送り込む。しかし、二人は木々を避けながらも、少年に対して常に同じ間隔と距離を保っていた。
苛立つ少年の心を読んだように二人が感覚を狭めた。ぐいと加速したテンが突出し、シメオンに肉薄する。
前を塞がれると思った途端、背中に悪寒が走った。首を竦めて屈んだ身体が刹那消え、追っ手の遥か先に現れた。再び消えて現れた少年は更に二人を引き離していた。背後から掴み掛かった男の手には、艶やかな黒髪が数本絡んだ組紐だけが残った。
―― ◇ ――
目の隅にちらりと写ったものが少年の注意を引いた。木々の合い間から、中央に大きくて平らな岩のある空間が見えたのだ!
少年が最後の力を振り絞る。空き地に飛び出すと岩に腰掛けていた男が立ち上がった。
引き離したのに先回りされていた。そう思っても避ける力が残っていないシメオンは真っ直ぐ男に突っ込んでしまう。
「おおっ? ……おい!」
一、二歩進んだ男は警告するように叫んで後ずさった。男は速度を抑制出来ない小さな身体を、両腕を広げて受け止めた。しかし、踏んばろうと引いた踵が岩にぶつかって無様に引っくり返る。
力無い少年の足先が岩に置いてあった物に掠った。硝子の筒が宙を舞い中の砂も煌いた。小さな身体を庇った男の目が見開かれ、虚しくそれを追う。それは台座も兼ねて上下に嵌められた天板の一方から着地した。暫し斜めに立っていたが、脆い硝子の筒は固い岩や尖った石に当たる事も無く、ゆっくりと落ち葉交じりの柔らかい土に倒れた。
「痛てて……。ところでお前さんは大丈夫か?」
安堵の溜め息を漏らした男は胸の上の少年を気遣った。全身から汗と熱気を発散している少年の顔は、汗で張り付いた髪が隠しているので殆ど見えない。肩を掴んでどかそうとすると細い身体がもがく。
苦しい息の下で何か言っているようだが、男にはよく聞き取れなかった。地べたに座らせる間も少年は抗う素振りを見せる。男が水筒を渡すと少し躊躇ってから受け取り、それでも一息に飲み干してしまった。
腰に巻き留めた少年自身の水袋に手を伸ばすと、再び身を固くして離れようとする。男が後ろに退くと少年は逃げるのを止めた。ぼろぼろの靴に紅いものを見付けた男が目を瞠る。
「あぁ、底が破けてしまったんだな。すぐに手当てを――――」
頭を先頭に、テン組も姿を現した。皆木立の切れ間から出ると同時に素早く減速し、最後は歩み寄る。
「どうだ、間に合ったか!? ……シメオンがどうかしたのか」
「それは問題ないが、この子は怪我をしてるぞ」
示された傷を確かめようとしたテンに、シメオンは握った土を投げ付けた。
「だましやがって……! 待ち伏せしないんじゃなかったのかよ」
「待ち伏せはしていない」
肩で息をする少年は、下を向いたままテンの足元へ何度も土を投げる。シメオンの前に屈んだテンは細い腕を掴んだ。
「追っていたのは組衆と俺の四人だけだ」
「うそ付け! じゃあなんでここに人が――――」
やっと顔を上げた少年はテンの後ろに三人の狩り人を見た。黒髪の銀目、金髪の大男、優男のカク。そして、横で心配そうにしているもう一人へ初めて注意を向けた。
短めの金髪、形の良い眉と優しそうな緑色の瞳。鼻筋が通っていてその下には丁度良い大きさの口があった。カクのような甘い容貌とは違うが、十分に整った面差しである。
その青年はテンたちと同じ袖無しの胴着とズボンを着ていた。銀目の男と同じ色の服だったので、てっきり捕まったと勘違いしたのだ。よく見れば服や靴は小ぎれいでぱりっとしていた。
食べるために額に汗して働く必要がないのは間違いない。色艶の良い肌は健康そうだが少年の方が日焼けしている。身体つきといい雰囲気といい、狩り人とは思えない。垢抜けた感じがするのは、金持ちのぼんぼんで大事にされているからだろうか。
「……この生っ白いの、……だれ?」
「おい! そんな口を利くな!」
思わず漏らした本音をカクが咎めるが、それを身振りで制したのは『生っ白い』当人だった。
「シメオン、この人はガリ=テス。東ガラットの領主だ」
「リョウシュって……、え……、王さま!?」
テンの言葉に少年は呆然とガリを見た。ずっと『王さま』は皺だらけで腹の突き出た年寄りだと思っていたのだ。テンと大して年の変わらぬ青年は頬を掻きながら苦笑いしている。形の良い鼻から目元に薄く雀斑が残っていた。
「嘘はついていないが騙した事にはなるかもしれない。実はこの人に頼み事をしたんだ」
「?」
「とりあえず傷の手当てが先だ。岩に座らせるぞ」
一方的に話を中断したテンはガリに目配せした。狩り組の頭と若き領主に両側から抱えられた少年は岩にそっと下ろされた。膝をついた大男が傷を見て困ったように呟く。顔をしかめて痛みに耐える少年に遠慮してか、歯切れの悪い物言いだった。
「ありゃあ……、足の裏が切れてる。でも傷はそんなに深くないみたいだな。後でちゃんと治療師に診せるにしても、土や小さな石が傷口に入り込んでるかも知れないから、まずきれいに洗わないと何も出来ない」
これじゃ足りんと水筒を示す。
「ふむ……。それならムトリニに連れて行こう」
「ムトリニってどこ?」
「じゃあ俺たちは傷に付ける薬草を集めてからそっちへ行く。おら、とっとと行くぞ」
「歩けないだろ。おれにおぶされ。少し揺れるかもしれないが、ちっとだけ我慢してくれ」
「だからどこに行くんだって――――」
「ちょっと待ってくれ。アレをすぐにしまうから……。こっちも無事で良かった」
銀目の男が仏頂面のカクと共に森に消える。背負っていた弓矢や鉈を外した大男は広い背を向けて待っていた。あたふたと落ちた物を拾い、大事そうに土を払って木箱にしまうガリ。
全く話の見えないシメオンがとうとう爆発した。
「タノミゴトってなんだよ! 王さまがなんでここにいるんだよ! ちゃんとぜんぶ教えてくれるまでオレはどこにも行かないっ!!」
怒れる少年は、毛を逆立てて威嚇する猫にそっくりだった。