第十一話 疾風
夜明け間近の夏山には鳥や虫の気配、木々のざわめきが満ちていた。森の息吹に優しく語り掛けられて少年は目覚めた。
欠伸をし、腕を上げて固まった背中を伸ばす。頬をくすぐる髪を首の後ろでまとめた。既に眠気の消えた少年の面は生き生きと輝いている。東ガラットに来てから頗る身体が軽い。腕や足を曲げて伸ばして調子を確かめる。
退屈と暑さで昼寝もしているのに、夜の早いうちに眠くなる。たっぷりと眠って朝日と共に起きる。
ちゃんと食べているせいもあるのだろう。村の食堂で買ったらしい包み焼きや炙り肉。茹でたり焼いたりと調理法を工夫された根菜たち。早生りの小さなリンゴ。
仮宿の縄張りからも自生している木の実や野草を摘んでいた。その食欲たるや、食べた物はどこに入るんだと苦笑されるほどだ。
今日も涼しい朝のうちに散歩を兼ねて食料を集める事にした。一ヶ所で沢山獲らないよう言われていたので、自然に行動範囲も広がっていた。
腕を広げて胸一杯に息を吸う。清浄な空気と共に流れ込んで来た〈祝福〉の力が身体の隅々まで満ちる。何かに導かれるように走り出した。
思い通りに身体が動く。軽やかに走り、大きく跳ぶ。右に左に木々を避けながらなおも速度を増していく。青玉の瞳を細めた風の妖精は微笑んでいた。
小さな布袋とズボンのポケットに森の恵みを詰め込んで、寝床と決めた場所へ戻った。滝のように汗が流れる。何度もゆっくり吐く事に集中し、乱れた呼吸を整えた。胸の中で大きく跳ねていた心臓の音と一緒に汗も静まっていく。
木の洞に隠した荷物と水袋を取り出す。こうした散歩の際は暑くて上着など着ていられない。喉を鳴らして油臭い水を飲んだ。新鮮な野草を齧って球根の辛味にむせてしまい、更に水を口に含んだ。
短い朝食を終えると上着のポケットの一つから細長い石を取り出した。野草を掘るのに使うので、すぐにナイフの切れ味が悪くなる。収穫のついでに見繕った石でこまめに研いでいた。ナイフと砥石に水を滴らせる。
少年の持つナイフはなまくらな上に切っ先が無かった。前の持ち主はとある町の大通りで真っ昼間に派手な喧嘩をしていた。始めは普通に殴り合っていたのに、頭に血が上って刃物を持ち出した。倒れた相手を刺そうとして石畳に喧嘩を売り、ナイフが負けたのだった。
先の折れたナイフを投げ捨てた男は取っ組み合いを再開した。しかし、大勢居た野次馬の誰かが既に兵士を呼びに行っていたようで、それ以上の惨事になる前にお開きになった。
そして人垣の後ろの小路に忘れられていたナイフは、拾った少年の財産となったのだ。
「それで先が折れていたのか」
その話をすると、テンは眉を寄せて嫌そうな顔をした。どちらかと言えば呆れていたのかも知れない。捕まった時に取り上げたナイフをしげしげと眺めていたのもそのせいだろう。
溜め息をついたテンはシメオンに断りを入れてから研ぎ始めた。少年の水筒を使って自身の砥石とナイフを湿らせ、飲み口の匂いを嗅いで再度眉根を寄せる。
途中で何度も目の高さに上げたり、爪で刃を突いて具合を確かめる。暫しの後で少年に返されたナイフは、先端が欠けているものの切れ味は蘇り、なまくらとは呼べなくなっていた。
テンと同じようには出来ないが、やらないよりはマシである。教わった通りに手入れをした。研ぎ過ぎるなとの注意を守り、ズボンに擦り付けて湿り気を拭いナイフをしまう。
ふと顔を上げると、何か動くものが目に入った。荷物を引っ掴んで慌てて隠れる。木の陰からこっそり覗いて様子を伺い、胸を撫で下ろす。真っ直ぐこちらに歩いて来る黒い人影には見覚えがある。よく考えれば、そうそう他の人間がやって来るはずが無いのだ。転げるようにその場から飛び出して手を振った。
片手を上げて応える姿は気落ちしているように見えた。少年の笑顔が消えていく。
狩り組は数日おきに狩りと休みを繰り返す。明日まで狩りに出ているはずのテンが目の前に居る。昨日の様子と考え合わせた結果は、シメオンに小さな溜め息をつかせた。
「…………オレのことバレた?」
押し黙ったテンの代わりに応えたのは風だった。少年の後ろに二つ、テンの隣に一つ。その風は人の姿をしていた。
気付いた時にはテンを含めて四人に囲まれていた。
「これが最近寮に居ねえ理由かよ」
鼻を鳴らし凄みのある低音で、短髪の男がテンを横目で睨む。銀色の瞳で刃物のような視線を送る。あんな風に見られたらそれだけで細切れにされてしまいそうだ。
「飯の後や非番の日にどこをふらついてるかと思えば、秘密の逢い引きとは恐れ入った。……成程、成りは汚れてるが元は良さそうだ。まさかお前にそういう趣味があるとはなあ――――」
「アンタこそ、おキレイな顔でアイソ振りまいて、みんなにかわいがってもらってんだろ」
「! 何だとこのガキ!」
背後からの揶揄にさらりと返すと相手の顔が屈辱に歪む。「元が良さそう」な男の態度に腹が立ったのだ。自分を馬鹿にする奴に負けてなるものかと見返す。二人の視線がはっしとぶつかる。
「おい――――」
「先にからかったのは兄貴じゃないか、やり返されて怒るなら吹っかけるなよ。相手はまだ子供なんだし」
「なっ……!? お前はあのガキの肩を持つのかよっ!」
「いや……、そうじゃないって……」
口を開こうとしたテンと前後して優男の隣にいたもう一人が止めに入った。のんびりした口調が場違いに響く。
シメオンは嫌味男と睨み合った時から、しゃがんだ男を目の隅で捉えていた。よっこらしょと声に出して立ち上がったその男は……、大きかった。厚みのある胸も首も、どこもかしこも太く大きいのだ。
喰って掛かる褐色の髪の男より、テンともう一人よりも頭一つ抜けている。丸太のような腕は少年の胴と同じくらいの太さだった。
でも、とシメオンは自分に警告を出した。今まで出会ったでかぶつは動きが鈍くて苦労せずに逃げられた。しかしこの金髪は樹上に潜んでいて、音も立てずに降りてきた。
男たちは皆一様にテンと似通っている。年も同じくらいだし身体つきも持ち物もそっくりだ。腰の後ろから鉈の柄がにょっきり出ていて、革帯に革小箱や布袋を幾つも着けている。
金髪の大男だけは背中に何かを背負っていた。革製の細長い筒からきれいに切り整えた鳥の羽と細い木――――矢羽と短弓が見えた。見掛け倒しでなければもっと大きな弓も引けるだろうに、玩具のように小さいのを選ぶのは動き易くするため。
そこから行き着く答えは一つしかない。
「カク、そろそろ止めろ。文句なら直接俺に言え。……すまない、シメオン。この三人は俺の組衆だ」
テンの言葉に少年は唇をきゅっと結んだ。最悪だった。諦めて身体の力を抜く。狩り組に囲まれてはもう逃げられない。
頭のてっぺんから足の先まで、三対の目がシメオンを無遠慮に値踏みする。突き刺さすような鋭い視線、怒りを含んだ視線、にこやかで楽しそうな視線。そのどれもが腹立たしい。しかし一番頭にくるのは――――。
「オレ一人つかまえるのに四人がかりなんだ。それはメイヨなのかな」
「匿うと言っておきながらこうなった事については謝るしかない。だが、まず俺の話を聞いてくれないか」
憎まれ口を叩いてもテンはめげずにシメオンと向かい合うつもりのようだ。
「こんどはなんて言ってごまかすつもりなんだよ」
「偉そうにしやがって、手前は何様のつもり――――」
口を挟もうとした優男――――カクをテンがじろりと睨んだ。舌打ちしたカクはそっぽを向いて黙った。
「もうここに隠れているのは出来なくなった。だからと言って俺たちはお前を捕まえたくはない」
俺『たち』?
テンは時々こういう勿体ぶった言い方をする。黙っているのを了承と取ったか、テンは先を続けた。
「誰か問題を起こせば組衆が迷惑する。それが頭なら余計にまずい。……だから組ぐるみでそれを隠す事にした」
テンへの怒りはまだ心中でふつふつと沸き立っているものの、大分頭は冷えてきた。考えの甘いテンならそう悪い事にはならないはずだ。もしそのつもりならとっくに捕まえるなり、殺すなりしているはずなのだから。
「ただ村から出て行って貰うだけのつもりだったんだが、そうも行かなくなった。庇ったのはお前が〈恵み〉の力を使えるからだと言っても皆が信じない。俺の信用に関わるので、それだけは証明したいんだ」
「それはオレにカンケーないじゃん」
呆れたシメオンが思わず漏らした。テンが腰のポーチから巾着袋を取り出した。膨らんだ袋が微かに金属音を立てる。少年の目が袋に釘付けになる。
「そこでだ、俺と賭けをしないか? ここに一万マールある。勝てばこの金がお前の物になる。負けてもそのまま村を出て行くだけだ。賭けの結果がどうあれ、誰にもばれないように街道の途中まで俺たちが送る。悪い話じゃないだろう」
確かに悪い話じゃないけどね。少年は心中で毒づいた。見世物小屋の操り人形のように、テンの好きに動かされるのが嫌だったのだ。
先に捕まった時と同様シメオンに選択の権利は無い。元々東ガラットにはテスの狩りを見物したくて足を向けただけだった。自分のような者は一つ所に長居出来ないのだから、何時かは出て行かなければならないのだ。
一万マールもあれば二月は飢えずに済む。その間にもう少し暖かい地域へ移れるし、冬用の服も買える。飢えの次に怖いのが寒さだった。少年の頭の中を激しく思考が駆け巡る。腹を括って頷いた。
「賭けにのるよ。条件は?」
「逃げるお前を俺たちが追う。四人の誰かに両肩を掴まれたらお前の負け、目的の場所まで逃げ切れればお前の勝ちでどうだ」
少年が再び頷く。
「合図の後百まで数えてから追う。準備が出来たら言え」
テンを包む雰囲気が変わり他の三人と同じになった。
狩り人のテンがそこに居た。