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第十話  海原

 巫女の森を訪れた際に少年の身に起きた異変は一時的なものだったようだ。帰路でも、数日を経ても何も問題は無い。

 どちらかと言えば問題があるのはテンの方である。少年の元を訪れたテンの様子がおかしいのだ。いつもなら少年の「ねえねえ」に喜んで答えるのに、今日は話がすぐに途絶えてしまう。邪魔するのも嫌だったのでシメオンは食事に注意を向けた。


 今日のパンは小さめのが二切れ。パンが食べたいと言ってからは必ず弁当に入っていた。芋や根菜が多いのは仕方ないが、少しでもあるとやはり嬉しい。気遣いに薄切り肉を乗せてかぶりつく。

 時折テンの視線を感じたが、少年は素知らぬ振りで食べ続けた。明日の分を残すために旺盛な食欲に渋々と終止符を打つと、ずっと様子を伺っていたテンが遠慮がちに切り出した。


「東ガラットを出たらどうするつもりだ。行くあてはあるのか」

「そんなもん無いよ、でも一度街にもどってみようと思ってる。マリダポールだっけ? あそこなら別のところへ行くのに楽そうだからね」

 あらぬ方へ睨んでうーんと唸った。視界に被さる前髪を掻き上げる。癖の無いさらさらの髪は何度払っても額や頬に落ちて邪魔だった。見兼ねたテンに貰った細い組紐で束ねても、何時の間にか抜け出してしまう。


「オレさ、色んなところを見てみたいんだ。どこまで行けるかわかんないけどあちこち見てまわって……。色んなことたくさん知りたいんだ」

 聞き手を得て嬉しそうな少年を見ているテンも気掛かりを一時忘れたようだ。好奇心旺盛な少年は会話術にも長けていた。限られた知識を豊富な想像力で補い、伝え聞いた噂を実際に見聞きしたかのように話す。


「ねえねえ、知ってる? 『海』ってさ、すっごく大きな水たまりで、ずっととおくのはじっこまで水が続いてて、船よりもでっかい魚までいるんだって。一度でいいから海を見てみたいんだよ」

 シメオンは青玉のような瞳をきらきらさせてまだ見ぬ海に思いを馳せる。

「知ってるか? 海の水は塩辛いんだ」

「えっ……、そうなの!? もしかしてテンは海を見たことあるとか?」

「いや、俺もそうと聞いただけで見た事は無い」

「そっか……」

 たっぷり喋って気が済んだ少年は最後に大きなげっぷをした。話が途切れると、虫の声や夕風にそよぐ葉ずれがよく聞こえた。


 食後の眠気を覚えた少年は少しぼんやりしていた。だからこそ、普段は言葉にしない疑問を口にしたのかもしれない。

「……どうしてテンは狩り人になったの?」

 シメオンにしては珍しくおずおずと尋ねた。狩りやテスの風習は詳しく教えてくれるが、自分自身については話したがらない。

 話の流れできょうだいの有無を尋ねた時も、むっつりと「いない」と答えただけだった。誰にでも話したくない事くらいあると知っているシメオンである。以後はテン個人への疑問は胸の内に留めていたのだ。


「狩り人になれば、少なくとも見習いの若衆になれば寮に住めるからだ。寝泊りする場所と稼ぎがあれば誰にも頼らず一人で生きて行ける。そして俺には狩り人になれるだけの〈祝福〉があった。……それだけだ」

 その言葉にシメオンは理由の分からない衝撃を受けた。一人でいたいから狩り人になったと言う事なのだろうか。組を持っているんだから一人じゃないと言い返したかった。やっぱり聞かなければよかったという後悔で胸がいっぱいになる。

 暗さを増した宵闇に紛れ、テンがひっそりと溜め息をついた。

「いつか海を見られるといいな」

 服の裾を握ったまま黙りこくったシメオンに、テンが静かに別れを告げた。 



―― ◇ ――



 自らが寝起きする寮の方角へ少し進んでから村へと戻る。少年のいる縄張りを大きく迂回するので聖地の中を突っ切る事になるが、テンは気にせず樹上を走る。村が近付くと広場や民家も避け、役所の裏手を素通りした。

 ちらちらと見えていた広場の篝火が視界から消えると、すぐに目的のテスの館である。細長い石造りの建物は平屋で、二階建てになっているのは一部分だけだった。


 テンは二階部分のとある窓の前へと向かった。開け放した大きめの窓から灯りが漏れている。窓へと大きく張り出した太い枝からそこへ飛び込んだ。素早く両膝を胸に引き寄せて身体を縮める。十分な余地を残して窓を潜り抜け、両手足で張り付くように板張りの床に下りた。

「遅くなって悪い。長く待たせたみたいだな」

「今日は狩り番だろう、暗くなってから来ると分かって待ってたんだ。気にする事はない。」


 部屋の家具――――枠だけの寝台や机と椅子――――には埃よけに布が掛けられていた。役所では人目につくからと直接館へ来るようガリが指示したのだ。

 放置された空き部屋で待っていた現当主は、かつてこの部屋を使っていた主に対して歓迎の笑みを浮かべた。窓から離れた床に座り、身振りで自分の横に座るよう促す。油皿ランプを置き直してテンに羊皮紙の切れ端を渡した。

「範囲を広げて調べても失せ人の届けは見付からない。王国から届いている手配書にも引っ掛からないから凶悪犯でないのは確かだ」

 調査の報告書は正式な書簡ではなく、オズバルドからガリへの私信として届けられている。走り書きに目を通すとテンは溜め息をつく。

「やはり親元に帰すのは難しいか……」


 国境を越えて人相書きが出回るのは犯罪者ばかりである。人攫いの届けを出しても捜索は困難なので、つても金も無い者たちは泣き寝入りが普通だった。まして率先して売った場合は、後腐れの無いよう死んだ事にしてしまう例さえある。

 シメオンを匿ってから十日になろうとしていた。テンもこのまま少年の存在を隠しておけるとは思ってはいない。引き留めておくのも限界だと感じていた。それはガリも同じだった。

「無理だろうと予想はしていたがやっぱりと言うしかない。早めに対処しなきゃならないが、本人がどうしたいかは聞き出せたか?」


 〈祝福〉の素養があったとしても、狩り人になれと無理強いしたりはしない。里子の件も同様である。

 少年の存在が発覚すればテンの立場が危うくなり、日を追うごとにその危険は増していくのだ。そしてガリにとって重要なのは、テンの意向を汲みつつ少年にもそれなりの便宜を図る事だった。

 気付かれないよう相手から情報を得るのがどれだけ厄介か。少年の元へ日参するテンから話の内容を聞くにつれ、その類の駆け引きに慣れていないテンには荷が重いと感じていた。

 今日も無理かとガリが諦めかけた時だった。手紙を見据えていたテンが口を開いた。




「海を――――」

「ん?」

「海を見たいを言っていた。遠くまで旅をして知らない土地を見てみたいと……」

 テンは手紙を握り締めていた。

「海か……。死ぬまでに一度くらいは見てみたいもんだ」

 内陸の山岳地帯に住む彼らにとって、温暖な気候の海は未知の物である。東ガラットでも実際に見た事があるのは数人だけだった。

 山を超えた北東には海があるものの、到達するには吹雪ブリザードが吹きすさぶ雪と氷の大地を踏破せねばならないのだ。見てみたいという単純な理由だけで行ける訳が無い。

 東ガラットを含めたテス領から南方の海へ向かうには、大陸を半分以上横断しなければならない。国境を幾つも越え、長い時間と道のりを経て海に至るのだ。


 ガリの住居たるテスの館には他国から贈られた絵画の一部が保管されており、その中には海を描いた風景画もあった。

 白い砂浜に打ち寄せる波。どこまでも続く水平線と抜けるように青い空と海。水面を煌かせる強い陽光を浴びて、見た事も無い花や木々が鮮やかな色彩を放つ一葉だった。王国生まれの少年が見たいと望む『海』もきっとその絵のようなものだろう。




 子供がそんな遠くまで? どうやって? 

 確かなものなど何一つ無い身の上でも少年はまだ見ぬ遠くを見ている。

 世の道理など考えず、ただただ純粋に――――。


 館の倉庫で見付けた海の絵。血のように真っ赤な花の色に驚き、遥か先まで続く水など有り得ないと言い争った。

 小さな砂時計に詰まった白い砂。海の砂だと教えられ、さらさらと落ちるのを飽きずに並んで眺めた。

 いつか必ず二人で海を見に行こうと約束した。




「――――それでどうするつもりだ。海辺の国へでも連れて行ってやるのか」

 先に郷愁を振り払ったガリが、実行不可能な現実を敢えて言葉にする。しかしテンも夢見ている訳ではなかった。

「次にマリダポールへ行くのは何時だ」

「本当はすぐにでも行きたいんだが、面倒な陳情が残っててなぁ……。どんなに遅くとも明後日の午後には村を出るつもりだ」

 シメオンの件を相談してからガリは村を出ていない。その理由は言うまでもないだろう。


「明日の昼に時間を空けてくれないか」

「……一日全部は無理だぞ」

「午前の数刻(数時間)でいい。その時にはっきり決めると約束する」

 黙って貴重な時間を割いてくれた幼馴染みに礼を言う。暫しの後にその場を辞して今度こそ寮へ向かった。テンにはまだやる事が残っていたのだ。

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