第一話 彼方から……
始めて知ったのは〈孤独〉という感情だった
〈虚無〉の中に孤独の結晶ができた
白く細く尖ったそれは氷となった
――――はじまりのうた――――
森の中の街道を馬車が行く。他には行き交う人や荷馬車の姿は無いが、ここは確かに街道だった。二頭の馬がそれぞれに小ぢんまりした作りの馬車を引いていた。幌の掛けられた馬車が先行している。
箱状になった後続馬車の荷台には、目の詰まった丈夫な布が掛けられていた。荷が落ちないよう布の上から何箇所かをロープで押さえている。
近隣の村や集落を回り、仕入れた小物を売り歩く行商の一家だった。縫い物用の糸や街で流行りの色で染めた反物、革帯やロープ等の細々した雑貨品ばかり。
山中の森を往く街道は道幅が狭く、うねっていて起伏も多い。荷台が重過ぎると山道で難儀してしまう。殆どの荷が大きさの割りに軽い物だった。
雑貨屋の無い集落や村では、こういう行商が重宝された。また、店が常設されていても、切らしてしまった品を補充するのに利用されていた。
小石を踏んだか、窪んだ地面の上でも通ったか。一定だった振動が乱れて、後ろの馬車が一際大きくがたんと揺れた。
覆いの下――――様々な大きさの樽や木箱の片隅に気配が涌く。重そうに膨らんだ麻袋の影で、もぞもぞと何かが蠢いていた。
やがて荷を覆う布の端がつと持ち上がり、すぐ元に戻った。荷台に痩せた少年が潜んでいたのだ!
年の頃は十歳前後か、いや、もっと幼くも見える。清潔とは言えない大きめの服。垢だらけの痩せた身体と脂まみれの黒い髪。どれも前に洗ったのがいつか知れない状態だった。
比較的汚れの少ない袖無しの上着は、端に房のついた飾り紐を腰に巻いて留めていた。上着の内側には隠しポケットが幾つもあり、小銭や非常食の干し肉などがあちこちにしまい込んである。
どこを見るでもなく視線を彷徨わせつつ、少年は少々困っていた。積み荷の中にひどい臭いのする干し魚があるからではなく、馬車の行き先にである。どこかの農村へ行くとばかり思っていたのに、どうやら山へ来てしまったらしいのだ。
今までも度々馬車に――――多くは持ち主に無断で――――乗り込み、自身の足で歩くよりも楽に遠くへ移動していた。身体が小さく身のこなしの素早い少年は、隙を見て荷台に忍び込むのも簡単だった。
今朝もそうやって、ある農村に居たこの馬車に目を付けた。街道近くの農村や集落を巡って、小物や日持ちのする乾物を売り歩く行商だった。
ひっそりと荷物の間に潜り込んで落ち着いた。生臭い匂いの籠もった中は暑かったが、布をずらして風が入るように隙間を作った。そうやって息を潜めているうちに眠ってしまったようだ。
少年がもう一度覆い布を持ち上げると、新鮮な涼しい空気が垢染みた顔に当たる。首を回して御者台の様子を窺う。そこに座って手綱を握るのは、そろそろ若者と呼ばれるだろう十四、五歳の若い男だった。
どうやら更に山奥へ行くらしい。山の真ん中に湖があり、その近くに村がある。少し前に立ち寄った街でそんな話を小耳に挟んでいた。この家族が向かっているのはその村なのだと、荷台の少年にも分かったのだ。
ここから街までの間に農村が幾つもあった。下りて戻ろうかと迷っていると、前の馬車から声が掛かった。
「もうすぐ休めるぞ。もう少しだけ辛抱しろよ!」
「わかったよ。父さん!」
年若い御者の返事を聞いて、荷台に潜む少年は行動を開始した。馬車を止めて休んだら、荷の覆い布とそれを押さえているロープの具合も確かめるはずだ。そうなればまずい事になるのは目に見えている。
行き先について悩むのは後に回し、荷を覆う布を更に持ち上げて周囲を確かめる。樽と麻袋を静かにずらした。狭い中で器用に身体の向きを変え、御者台に注意を払いつつ足先から地面に飛び下りた。
急いで森に入って大木に身を隠す。木の根元に縮こまり、自分は岩だ草だと念じながら馬車が遠ざかるのをひたすら待った。
後続の御者は何かを感じたのか、ちらりと荷台を振り返った。しかし何も見付けられなかったようで、すぐに視線を前へ戻した。
一方、馬車を下りた少年は考えていた。胡坐をかいて腕を組み、顔をしかめている。
自分が今いるのが、リョウシュというテス族の王さまの土地なのは知っていた。その王さまは山の中の村と、大きな街を行ったり来たりして暮らしている。……と、その大きな街で聞いた。
山と森は一族のもの。
街の大人たちは、それが当たり前だと言うように話していた。テスたちは森の獣を狩って暮らしているという。他の街や村でも同じような話を聞いた覚えがあった。しかし街育ちの少年には、裏路地で鼠を捕まえて食べるのと、森の獣を捕らえる違いが分からなかった。
途端に少年の好奇心がむずむずしだした。テスの狩りを見てみたいと思ったのだ。一度そう思い始めると、彼の好奇心は止まらなかった。
立ち上がった少年は、かなり小さくなった馬車の姿を追って森の中を歩き出した。自分からは見えるけれども、向こうからは見付からないはず。身を隠すための木はいくらでもある。
馬車に追い付くとほどよい距離を保つ。少年は東ガラット村を目指して街道を進んだ。
薄汚れた少年がテスの村へ行くのを決めたその日。空が夕焼けに染まり切る前に、行商の一家が歩みを止めた。昼に立ち寄ったのと同じような『休憩所』が他にもあったのだ。そこに辿り着いた一家は馬車を乗り入れた。
街道横に半円形の空き地があった。大型の四輪馬車が入れるくらい十分な広さがある。
先行していた馬車の荷台から下りた女が男を手伝っている。馬を轅から外し、二本の手綱を近くの木の幹にしっかりと括り付けた。
森に火が燃え移らないように、この空き地は下生えも殆ど無い。中央には石で囲われた箇所があった。中の地面と石の内側が焼け焦げて黒ずんでいる。
男はその場所へ子供たちの集めて来た薪を置いて火を起こした。
焚き火の灯りを避けた少年は、空き地から十分に離れた木の陰で食事をしていた。時折袋に口を付けて中の水を含み、塩気の効いた固い干し肉をしがんでいる。幸い、炙り肉や煮炊きの匂いは漂って来ない。
油臭い水は不味い、少年はそう思いながら口の中の物を飲み込んだ。以前の持ち主はこの水筒に油を入れていたのだ。それでも今は、少年の飲み水を容れる大切な物だった。しっかりと蓋をして腰の帯に留めた。
脱いだ上着の上にごろりと横になって、家族の灯りと木の幹に背を向けた。夏の今時期の野宿で凍える事は無い。羽虫や蚊には少し悩まされるが、それも慣れっこだった。心地良い夜風を感じながら、少年は一人で眠った。
轅・長柄【ながえ】は、馬車や牛車の前方に突き出ている二本の長い棒です。そこに革ベルトや金属部品を繋げて、馬や牛に引いてもらいます。轅に横に渡した軛【くびき】へ馬を繋げる場合もあります。一頭立てでは軛は余り使われないようなので、本作中では二台とも軛が無いタイプの馬車として扱いました。