妄
あれは何だったのでしょうか。
昼下がり、よく晴れた日のことです。暑かったのです。ですから季節は夏でした。私が住んでいた家のすぐ表に、大きな通りがございまして、ときどき乾いた砂砂利をふき上げてゆく車の往来なども少しはある、幅広の通りが、そうです通りがあったのです。私の家はそこから引っ込んで薄暗い路地に入りまして、蛇の腹を辿るような、なんともじめついた一角にございました。しかしその通りは大きかったのです。日向と日陰の強烈なのをいやに覚えております。通りに出るときはいつも眩しいのです。それは目を灼かんばかりに……。ですから私のみでなく、多くの人が、顔の前に手を翳して、隠れるようにして歩くのです。しかし通りはほんとうに眩しく、明るいのです。
そして、建物の間には電線がございます。それが空を細切れにいたします。床屋、カメラ屋、洋食屋などが、ぼちぼち立ち並んでおります。それに洋装店や舶来品を売る店などは、通りに面したガラスに品物を出して、ウィンドウショッピングなどということをさせます。その中にはマネキンがおりまして色とりどりの服を着せられ、ガラスの中に立ちん坊にさせられながら、じいとこちらを見ているのです。出してくれと言わんばかりに、ですが何も言わないのです。あんなに哀れなものがあるでしょうか。
私はどうしてあの通りにいたのでしょうか。手がかりには、幾らかの小銭をもっていたような気がいたします。私はそのためにずっと右手を握りしめていたのです。飴を――。飴を買おうとしていたのではなかったかと、薄らとした記憶がございます。ところが飴屋が見つからぬのです。飴を売る店どころか、見知った店が一つもないのです。すぐそこの路地を入れば自分のうちがあるというのに。大通りに出た私は、見つからぬ飴屋を探し、知らない道筋のなかを、途方に暮れて歩いているのです。
そんなときだったのです。私の視線の端に、あれが引っかかってまいりましたのは。
一人の大道芸人が、日差しにけぶる通りの真ん中で、おどけて芸をしております。砂利道に無造作に足台を置き、その上にのっておりましたので随分背が高く見え、白いひらひらした衣装とどぎつい化粧のせいで、ピエロにもよく似ておりました。しかし気味の悪いピエロでした。化粧があんまり醜いので、地の顔がさっぱり見えぬのです。目すらも黒と赤の縁取りのせいでよく見えないのです。口はもっと悪く、口裂け女のように耳の下まで紅を引いて、しかもその紅は上が赤で下は緑というように、およそ品のないものでした。
かれは骨のように細い腕を器用に動かして、ひょいひょい戯けて見せながら、曲刀を投げたり受け止めたりします。右手で投げた曲刀が、くるくる回りながら左手にぴったり落ちてきます。それをもう一度投げ上げると、今度は足で受け止めます。器用なものです。かれの周囲には人だかりが――大量のマネキンのような人だかりが出来、皆してかれの手元に吸い付けられておりました。私はどういうわけかその観客に立ち混じる気にもならず、かといって離れるにも惜しいような気分で、遠巻きにかれの手元の曲刀が躍るのを眺めていました。手には小銭の硬い感触が確かにありました。
群衆はときどき示し合わせたように歓声を上げ、すぐまた黙ります。それを幾度となく繰り返すのです。やがて私には彼らがひとかたまりの声のばけもののように感じられてまいりました。そしてそのばけものがわあっ、わあっと沸くたびに、醜いピエロは更に壮絶な技でもって答えるのです。その奇妙な緊張感――何かが張り詰めてゆく恐ろしさ――あれを味わったのは、恐らく私一人でした。歪な三角形の一角にいた私だけに、それがわかったのです。
やがてその時は唐突にやってまいりました。ピエロの腕が目にも止まらぬ速さで撓り、ぴうと鋭い音が空気の筋を切り裂いたかと思うと、観客の一人の首が勢いよく跳ね飛びました。ピエロの放った曲刀が、両側から襲いかかり――鋏のように――それを切り落としてしまったのです。
首をなくした体はやがて崩折れました。真っ赤な血しぶきが舞いあがり、観客はたちまち大喝采をあげました。首は私の確かに足元に転がってきたのですが、私と目が合うと、ふいとつまらなさそうにまたどこかへ転がっていってしまいました。
熱狂のるつぼの中で、ピエロは気取って礼をしました。そしてそこから、私の記憶はふっつりと途切れておりますのです。
あれから何度もあの通りへ行こうと試みてまいりましたが、どういうわけか、一度も辿り着くことが出来ません。どころか、私のうちの近くで、ああも凄惨な、昼日中に殺人が起きたことなど、誰も知らぬと申すのです。どころか、あの通りの所在すら誰も知らぬと申します。私は今もあの場所をはっきりと思い描くことができます。カメラ屋、洋食屋、それにウィンドウショッピングをさせるいくつかの店――そのガラス張りの中に閉じ込められ、一部始終を見ていたはずのマネキン、しかしそれらがどこにも見つからないのです。私の家の前の、蛇の腹のような細い路地、これを抜けた先にあるはずの、日差しに白くかすむ大通り――空を分割せんばかりの電線、ああいったもの。なぜだか見当たりませんのです。最後の手掛かりとして、私があの日行こうとしていた飴屋、しかし私はその店の名前をどうしても思い出せないのです。半分ほど白髪になり、右頬に大きな黒子をもった気のいい婆さんがいる飴屋です。しかし、道筋を思い出そうとすればするほど、あいだの道の記憶がぼやけ、永遠にたどり着けぬような気もちにさえなるのです。
あれは何だったのでしょうか。多感な少年時代の気の迷いだったのでしょうか。それとも――。
もしあれが本当のことでなかったのなら、私は狂人です。もしあれが本当のことだったとしたなら、私のほかの全ての人が狂人です。
私は今日も、見つからない飴屋を探して歩いています。ですが正直なところ、ベッドから抜け出すことができません。