「お前なら分かってくれるだろう」と100回言われたので、完璧な引き継ぎ書を置いて静かに去ることにした
⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。
王宮の一角にある、豪奢な調度品で飾られた待合室。
壁に掛けられた大きな古時計が、静かな部屋の中に規則正しい秒針の音を響かせていた。
カチ、カチ、という無機質な音が、私の削られていく時間を正確に刻んでいるようだった。
テーブルの上に置かれた紅茶は、とっくの昔に冷めきっている。本来なら芳醇な香りを漂わせているはずの最高級の茶葉も、今ではただ渋みを増すだけのひどく濁った水でしかなかった。
今日は、私の婚約者である王国第一王太子、ディートリヒ殿下と観劇に行く約束の日だった。
半年前から私が心待ちにし、多忙な公務の合間を縫って徹夜を重ね、ようやく確保した有名な劇団による一日限りの特別公演。
だが、約束の時間を一時間、そして二時間と過ぎても、彼がこの重厚な扉を開けることはなかった。
やがて、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
重い扉が開き、ディートリヒ様の側近が顔を真っ青にして駆け込んでくる。
「ルーシア様、誠に申し訳ございません。ディートリヒ殿下は本日、こちらへはお越しになれません。リーゼロッテ様の急な発熱により、殿下が側を離れられず……」
深く頭を下げる側近の言葉を聞いた瞬間。
私の心の中で、ピンと張り詰めていた見えない糸がふつりと音を立てて切れた。
ああ、これでちょうど百回目だ。
病弱な義妹であるリーゼロッテ様が熱を出した、咳き込んだ、雷を怖がって泣いている。
その度に、私の予定は塵芥のように扱われ、無造作に後回しにされてきた。
「お前なら分かってくれるだろう。リーゼには私しかいないのだから」
ディートリヒ様のその呪いのような善意の言葉に縛られ、私はずっと耐えてきた。
未来の王太子妃として、誰よりも寛容で、慈悲深くあらねばならないと自分に言い聞かせて。
けれど、側近の申し訳なさそうな声を聞いた途端、私の脳裏に全く別の記憶が奔流のように流れ込んできたのだ。
夜遅くまで青白く光るパソコンの画面。
誰もいなくなったオフィスで鳴りやまない呼び出し音。
他人の終わらない仕事まで当たり前のように押し付けられ、誰にも感謝されることなく、ただ都合よく使われ続けた日々。
そして迎えた、冷たいオフィスの床の上での孤独な最期。
それは、前世の記憶。
他人に尽くしすぎて身も心もすり減らし、過労の末に命を落とした私の惨めな過去だった。
その生々しい記憶が、息苦しいほどの疲労感とともに鮮明に蘇った瞬間。
胸の奥で燻っていたディートリヒ様への不満や悲しみは、すっと凪いだように消え去ってしまった。
残ったのは、ひんやりとした、まるで冬の静かな湖面のように澄み切った諦めだけだった。
もう、いいわ。
前世でも、そして今世でも、私は十分すぎるほど他人のために生きた。
相手の顔色を窺い、自分の感情を殺し、理不尽な要求に応え続けてきた。
その結果がこれだ。前世と同じ轍を踏み、ただ都合よくすり減っていくだけの人生。
これ以上、私のたった一度きりの大切な人生を、誰かの身勝手な言い訳のために消費させるのはごめんだ。
私の機嫌は、私の幸せは、私自身の手で守り、作り上げるしかない。
私は、まだ頭を下げ続けている側近に向かって、いつも通りの、いや、いつも以上に完璧な淑女の微笑みを向けた。
「事情はよく分かりました。殿下には、どうかリーゼロッテ様のお側について差し上げるよう、よろしくお伝えくださいませ」
「ル、ルーシア様……寛大な御心に、心より感謝いたします」
安堵の息を漏らす側近を残し、私は静かに待合室を後にした。
自室へ向かう廊下を歩く私の足取りは、驚くほど軽かった。
泣き喚く気も、怒り狂って手当たり次第に物を投げつける気も、微塵も起きない。
ただ、限界を迎えた心が、この理不尽な関係を終わらせるための事務的な処理を冷徹に求めていた。
自室に戻るなり、私は侍女たちを下がらせ、一人で机に向かった。
引き出しから真新しい羊皮紙の束を取り出し、ペンにインクをたっぷりと含ませる。
そして、王太子妃として私が水面下で担っていた業務のすべてを書き出し、完璧な引き継ぎ書を作成し始めた。
複雑に絡み合う各派閥の貴族たちとの調整事項や力関係の図解。
逼迫気味だった王室財務の確認と、改善のための予算案。
来月開催される大規模な夜会やお茶会の詳細な手配書。
他国との非公式な外交交渉の進捗状況。
これらは本来、次期国王となるディートリヒ様が自らこなすべき仕事だった。
だが、彼が義妹にかかりきりで政務を疎かにしても国が傾かないようにと、私が陰で徹夜を繰り返しながら代行していたものばかりだ。
それらを一つ残らず、誰が読んでも理解できるほど緻密に、冷酷なまでに正確な書類へとまとめていく。
そこには感情の入る余地など一切ない。ただ国を回すための事実と数字だけが並ぶ、完璧な引継ぎ書だった。
同時に、私個人の財産の整理にも取り掛かった。
公爵家から持ち込んだ莫大な持参金や、私が個人的に運用していた私有地からの収益は、すでに大半を私個人の名義で預けてある。
隣国への移住手配も、以前から懇意にしている信頼できる商会を通じて、密かに、かつ迅速に進めていた。
夜明けの白々とした光が窓から差し込む頃には、すべての準備が整っていた。
マホガニーの机の上にうず高く積まれた分厚い引き継ぎ書の束。
それは、私が彼に捧げた果てしない時間の結晶であり、そして同時に、私自身を縛り付けていた重い鎖の残骸でもあった。
私はインクで汚れた指先を拭いながら、その束をひどく冷めた目で見つめた。
◇ ◇ ◇
それから数日後の昼下がり。
ディートリヒ様が、悪びれる様子もなく私の部屋を訪れた。
「ルーシア、この間はすまなかったな。楽しみにしていた劇だったのだろう?」
ソファに深く腰掛けた彼は、どこか面倒くさそうに息を吐いた。
「だが、お前なら分かってくれるだろう? リーゼは本当に体が弱くて、私がいないと駄目なんだ。お前は昔から一人で何でもこなせるほど強いのだから、少しの我慢くらいできるだろう」
ただ自分の正当性を主張し、私に理解という名の従属を強いる、甘えきった声。
彼を見つめながら、私は心の底から深く安堵した。
ああ、この人は本当に私のことなど何も見ていなかったし、何も分かっていなかった。
そして、これからも永遠に分かることはないのだと、はっきりと確信できたからだ。
「ええ、殿下。よく理解しておりますわ」
私は一切の嫌味を込めず、一糸乱れぬ完璧な淑女の微笑みを浮かべて深く頷いた。
そして、あらかじめ用意してあった一枚の書類を、静かにテーブルの上へと滑らせた。
「ですので、こちらにサインをお願いいたします」
「……なんだ、これは」
「婚約破棄の同意書でございます」
ディートリヒ様は目を丸くし、書面と私の顔を交互に見比べた後、やがて呆れたように鼻で笑った。
「冗談だろう? たかが観劇に行けなかったくらいで、いくらお前でも我儘が過ぎるぞ。リーゼが可哀想だとは思わないのか」
「冗談ではございません。殿下はリーゼロッテ様を最も必要とされ、私もまた、殿下のその重いお役目から身を引くことが最善であると判断いたしました。王宮の引き継ぎ事項や未決裁の政務に関する資料は、すべてあちらの束にまとめております」
私が指差した先にある書類の山を見て、彼は一瞬だけ顔を引きつらせた。
私の声は、自分でも驚くほど冷たく透き通っていた。
怒りも悲しみもない、ただ決定事項という事実だけを淡々と告げる声。
ディートリヒ様は私の顔をまじまじと見つめ、そこにいつもの従順で自分を許してくれる婚約者の姿が欠片もないことに、ようやく気づいたようだった。
「な、何を言っている。お前がいなくなって、誰が公務を……いや、父上や公爵が許すはずが……」
彼が狼狽えながら何かを言い訳しようとする前に、私は銀細工の美しい万年筆を差し出した。
「お互いの未来のためです。どうか、ご署名を」
反論の余地など一ミリも与えない、私の静かな、けれど圧倒的な迫力。
それに呑まれたのか、あるいは事の重大さをまだ本質的に理解していないのか、彼は無意識のうちにペンを受け取った。
そして、少しだけ震える手で、用紙の末尾に自らのサインを書き入れた。
インクが完全に乾くのを見届け、私は同意書を丁寧に丸めて手元に引き寄せた。
これで、終わりだ。全部。
「今まで大変お世話になりました。リーゼロッテ様と、どうぞお健やかに」
私はドレスの裾を優雅につまみ、生涯で最も美しいカーテシーを披露した。
彼が呆然と立ち尽くし、何かを引き留める言葉を探して口を動かしている隙も与えず、私は素早く背を向けた。
あらかじめ荷造りしてあった最小限のトランクだけを手に持ち、その日のうちに、私は長年縛り付けられていた息の詰まる王宮を去った。
一度たりとも、後ろを振り返ることはなかった。
◇ ◇ ◇
馬車が国境を越え、隣国の領地へと足を踏み入れた途端、肺を満たす空気がふわりと軽くなったように感じた。
窓から外を眺めると、王国の重苦しく曇りがちだった空とは打って変わり、澄み切った青空がどこまでも広がっている。
すれ違う人々の表情も明るく、活気に満ちていた。
息の詰まるような宮廷のしきたりも、常に誰かの顔色を窺い、理不尽な優先順位に振り回される日々も、もうここにはない。
昨日までのすべてが、まるで遠い過去の悪夢のように思えた。
私は王都の宿に着くなり、公爵令嬢としての身分を示す豪奢で重たいシルクのドレスを脱ぎ捨てた。
そして、あらかじめ用意しておいた質素な綿のワンピースへと着替える。
コルセットの締め付けから解放された身体は羽のように軽く、私はただの「ルーシア」という一人の自由な町娘になったのだ。
翌日から、私は王都の賑やかな通りから少し外れた、日当たりの良い石畳の片隅にある小さな空き店舗を借りた。
貯えていた資金は十分にあったが、贅沢をするつもりはない。
自分の目の届く範囲で、自分の手で作り上げる空間が欲しかった。
壁を塗り直し、古い木の棚を磨き、前世からのささやかな、けれど決して叶わなかった夢を一つずつ形にしていく。
数日後、店先には色とりどりの花々が陽光を浴びて瑞々しく咲き誇っていた。
私の、私だけの花屋だ。
新しい生活の朝は早い。
まだ薄暗いうちに起き出し、活気あふれる朝の市場でその日一番の花を仕入れる。
店に戻って丁寧に水揚げをし、客の好みに合わせて花束を束ねる。
一日中立ち仕事で、水仕事のために手も荒れる。
体は確実に疲労しているはずなのに、不思議と心は澄み渡り、心地よい充実感に満たされていた。
誰かの言い訳のために自分の予定を白紙にされることも、他人の尻拭いで理不尽な徹夜を強いられることもない。
自分の足で立ち、自分の意志で働き、自分のために深呼吸をする。
それがどれほど尊く、幸福なことか。
生成りのエプロンを身につけ、鼻歌を歌いながら店先を箒で掃いていると、柔らかな朝の光が私を優しく包み込んでくれた。
土と緑の匂いが、すり減っていた私の心を少しずつ修復していくのが分かった。
そんな穏やかで満ち足りた日々に、ひとつの温かな変化が訪れた。
この王国の若き騎士団長であるレオンハルト様が、私の店の常連客になったのだ。
初めて彼が店を訪れた時のことは、よく覚えている。
大柄で鍛え抜かれた体躯を持つ彼が店の戸をくぐった瞬間、小さな花屋は一層狭く感じられた。
腰には立派な剣を帯び、鋭い顔立ちと隙のない身のこなしは、一見すると近寄りがたい雰囲気を纏っている。
しかし、彼が店内の花々を見つめた時、その印象は一変した。
冷徹そうに見えたアイスブルーの瞳は、信じられないほど穏やかで優しく細められていた。
彼は大きな手を少しだけ戸惑わせながら、花びらを傷つけないようにそっと指先で触れる。
その無骨だけれど思いやりに溢れた所作を見て、私は彼が心から花を愛しているのだとすぐに理解した。
それ以来、彼は非番の日になるとふらりと私服で店を訪れ、不器用な手つきで小さなブーケを買っていくようになった。
口数は少なく、最初は挨拶を交わす程度だったが、何度か顔を合わせるうちに自然と会話が増えていった。
ある日の午後、店先を訪れた彼が、棚の隅に置いていた珍しい青い小花を愛おしそうに眺めているのに気づいた。
「それは、夜明けの雫と呼ばれる花です。日差しが強すぎると萎れてしまうので、少し手がかかるのですが、正しくお水をあげるととても綺麗な色になるんですよ」
私がその花の育て方を少しだけ語ると、彼は真剣な表情で耳を傾け、そして、ふわりと相好を崩した。
「君は本当に花を愛しているのだな。その生き生きとした瞳を見ていると、こちらまで心が温かくなる」
低く落ち着いた声で、まっすぐに目を見てそう言われ、私は思わず言葉を失った。
胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、それでいてひだまりの中にいるような、不思議な感覚だった。
これまで、私自身を正面から見つめ、こんなにも真っ直ぐな言葉をかけてくれる人などいなかった。
有能な王太子妃という肩書きや、便利に使える手駒、あるいは文句を言わない都合の良い存在としてしか見られてこなかった私にとって。
レオンハルト様の言葉は、干からびてひび割れた土に染み込む、甘く優しい春の雨のようだった。
彼は私の過去を詮索しない。
なぜこんな小さな店を一人で切り盛りしているのか、どこから来たのか、野暮なことは一切聞かなかった。
ただ、今、目の前で花に笑いかける私を、一人の人間として大切に扱ってくれる。
誰かの代わりでもない。
我慢を強いられる付属品でもない。
ありのままの自分を認められ、肯定されることが、こんなにも心が満たされ、涙が出そうになるほど嬉しいものなのだと。
私はこの新しい街で初めて知ったのだった。
◇ ◇ ◇
一方、ルーシアが静かに姿を消してから数週間が経過した王宮では、かつてないほどの深刻な混乱と絶望の嵐が吹き荒れていた。
豪奢だったはずの王太子の執務室は、今や見る影もなく荒れ果てている。
マホガニーの広大なデスクには、天井に届きそうなほど大量の未決裁書類が乱雑に積み上げられ、床には丸められた羊皮紙が散乱していた。
部屋には何日も換気されていない淀んだ空気と、乾いたインクの焦げたような匂いが充満している。
ディートリヒは血走った目で、震える手の中にある書類を睨みつけていた。
初めは、少し頭を冷やせば彼女はすぐに戻ってくるだろうと、ひどく高を括っていたのだ。
あんなにも自分に献身的に尽くし、どんな我儘にも微笑みを絶やさなかったルーシアが、本気で自分を見捨てるはずがないと。
一時的な癇癪に違いないと、愚かにも思い込んでいた。
だが、現実は彼に牙を剥いた。
ルーシアが整然と残していった引き継ぎ書の束を見た時、ディートリヒは初めて、自分がどれほど無能で、愚鈍であったかを思い知らされることになった。
東部国境の関税引き下げを求める隣国との細やかな外交交渉。
長年の対立を抱える保守派と革新派の貴族たちの微妙な力関係の調整。
逼迫していた王室財政のやり繰りと各部署への予算配分。
目を通すたびに、めまいがした。どうしてここまで完璧に、一人の令嬢が把握し、調整しきれていたのか。
それらはすべて、彼が「退屈で面倒な仕事」として放置していた間に、ルーシアが完璧に、かつ彼の功績となるように水面下で処理していたものだったのだ。
彼女がいなくなった途端、強固な防波堤を決壊させたかのように、滞っていた問題が一気に噴出した。
財務大臣からは連日のように予算の枯渇と無策を糾弾する突き上げを食らい、有力貴族たちからは露骨に冷ややかな視線と非難を向けられる。
他国の特使に対する接待の手配すら満足にできず、国際的な信用も地に落ちた。
社交界ではすでに、「類まれなる有能な婚約者を己の身勝手で見限り、自らの首を絞めた愚かな王太子」という不名誉な評価が完全に定着しつつあった。
「なぜだ……なぜ、誰も私を助けない! 私はこの国の王太子だぞ!」
苛立ちに任せてペンを壁に投げつけ、ディートリヒは頭を抱えて唸り声を上げた。
誰も助けないのではない。
彼を無条件で助け、支え続けていた唯一の存在を、彼自身が踏みにじり、永遠に失ってしまっただけなのだ。
崩壊は、音もなく、しかし確実に彼の足元を浸食していた。
ルーシアという最も太く強靭な柱を失ったこの国と彼の地位は、もはや砂上の楼閣のように脆く崩れ去ろうとしていた。
重苦しい空気の中、ディートリヒは吐き気を催しながら山積みの決裁書類にサインを続けていた。
目の下には色濃い隈が浮かび、頬はこけ、かつての華やかで自信に満ちた王太子の面影は見る影もない。
そこへ、バタンと勢いよく執務室の扉が開いた。
「お義兄様……っ、げほっ、またお熱が出てしまって……苦しいの……」
涙目でふらふらと歩み寄ってくるのは、義妹のリーゼロッテだった。
以前のディートリヒなら、どんなに重要な仕事の最中であっても、すべてを放り出して彼女を抱きとめ、優しく慰めていただろう。
だが、今の彼には、その甘えた声を聞くことすら苦痛だった。
疲労と重圧で精神の限界を迎えていた彼は、縋り付こうとするリーゼロッテの手を思わず振り払い、冷たく硬い声で侍従に命じた。
「……すぐに専属医を呼べ」
強引に呼び出され、息を切らして駆けつけた老齢の医師は、怯えるリーゼロッテを慎重に診察した。
しかし、聴診器を当て、脈を診るうちに、医師の顔には明らかな困惑が広がり始めた。
やがて医師は、ひどく気まずそうに口ごもりながらディートリヒに向き直った。
「……殿下。リーゼロッテ様の体温は、完全に平熱でございます。喉の腫れも、肺の異常も、脈の乱れも一切見受けられません。ただの……その、殿下の気を引くための、酷く誇張された振る舞いかと……」
重い沈黙が、執務室に降り下りた。
リーゼロッテは気まずそうに視線を泳がせ、慌ててディートリヒの袖を掴んだ。
「ち、違うの、お義兄様! 本当に苦しくて、胸がどきどきして……だから、ずっとお側にいてほしくて……っ」
言い訳を並べ立てるその底の浅い甘えた声を聞きながら、ディートリヒの頭の中で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
この程度の、ただの子供じみた我儘。
そのくだらない虚栄心を満たすためだけに自分は、あの観劇の日、ルーシアとの百回目の大切な約束を破ったのか。
彼女が血を吐くような思いでこなしていた膨大な公務を、己の王太子としての重い責任を、すべて彼女の底なしの優しさに甘えきって放棄してきたというのか。
『お互いの未来のためです。どうか、ご署名を』
感情の一切こもっていなかった、あの日のルーシアの冷たく澄んだ声が耳の奥で鮮明に蘇る。
彼女は決して怒っていたのではない。
とっくの昔に自分を見限り、底知れぬ失望の果てに、呆れ果てていたのだ。
絶対に手放してはいけない、国にとっても自分にとっても最も尊くかけがえのない宝を、己の身勝手な言い訳と傲慢さで泥水に投げ捨ててしまった。
その残酷な事実を突きつけられたディートリヒは、顔を両手で覆い、冷たい床に膝をついた。
静まり返った執務室に、取り返しのつかない深い後悔に染まった、彼の哀れな嗚咽だけがいつまでも響き渡った。
◇ ◇ ◇
王国での凄惨な惨状など知る由もなく、私の日常は穏やかな光と花の香りに満ちていた。
その日の午後、店先で並べた鉢植えに丁寧な水やりをしていた私の前に、いつものように非番のレオンハルト様が現れた。
飾り気のないシンプルな私服姿だったが、今日ばかりはいつもと少し様子が違った。
その冷徹なはずのアイスブルーの瞳には、かつてないほど真剣で、熱を帯びた強い光が宿っていたのだ。
「ルーシア。少し、いいだろうか」
彼の少し硬く、緊張したような声に促され、私は水差しの手を止め、店の奥にある休憩用の小さな丸テーブルへと向かい合った。
レオンハルト様はテーブルの上に組んだ両手を見つめ、やがて顔を上げると、逃げ場のないほど真っ直ぐに私の目を射抜いた。
そして、低く誠実な声で、一つ一つの言葉を噛み締めるように紡ぎ出した。
「君の淹れてくれる温かい茶も、君が心を込めて束ねる花も、すべてがたまらなく愛おしい。だが何より、それらを慈しみ、懸命に生きる君自身のことが、どうしようもなく好きなんだ。……どうか、私の妻になってくれないだろうか」
その言葉は、貴族社会の華美な装飾に満ちた辞令とはまるで違う、不器用で、飾り気のない、けれど何よりも重い真実のプロポーズだった。
私の胸の奥底を、じんわりとした温かい感情が満たしていく。
嬉しかった。
泣いてしまいそうなほど、嬉しかった。
けれど、だからこそ、私にこんなにも真っ直ぐな想いを向けてくれるこの人に対して、絶対に不誠実であってはならない。
私は膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開いた。
「……レオンハルト様。私には、お話ししなければならない過去があります」
私は、自分がただの平民の町娘ではないこと。
隣国の元公爵令嬢であり、王太子の身勝手さに耐えかねて婚約を破棄し、地位も名誉もすべてを捨てて国から逃げてきた身であることを、一切包み隠さずに打ち明けた。
ずっと身分を偽っていた私を、誇り高い騎士である彼は軽蔑するだろうか。
傷物であると幻滅して、席を立ってしまうだろうか。
震える声で語り終え、俯いたまま覚悟を決めていた私に向かって、彼はふっと優しく、とても温かな吐息を漏らして微笑んだ。
そして、テーブルの上で固く握りしめられ、血ののぼらなくなっていた私の両手を、その大きくて分厚い手でそっと包み込んだのだ。
「それがどうしたというんだ。君が逃げ出した公爵令嬢であろうと、婚約破棄された訳ありの身であろうと、私にとっては些末なことだ。すべて異国での出来事だろう?」
剣ダコのある武骨な手から、じんわりと確かな体温が伝わってくる。
「過去がどうであれ、私が愛しているのは、今、目の前で花に笑いかけ、懸命に自分の足で立っている君自身だ。君が抱えてきた理不尽な傷も、重い過去もすべて、私がこの先、生涯をかけて守り抜いてみせる」
迷いのない、力強いその言葉に、前世からずっと心の奥底に張り詰めていた見えない糸が、ふつりと、今度こそ完全に解けていくのを感じた。
誰かのために自分をすり減らし、犠牲にするのではなく。
ただ私という存在そのものを愛し、第一に大切にしてくれる人。
前世からずっと、本当に欲しかったものを、私はついに見つけたのだ。
とうとう堪えきれずにこぼれ落ちた涙を拭うこともせず、私は深く、何度も頷きながら、彼の温かい手を強く握り返した。
レオンハルト様からの不器用で誠実なプロポーズを受け入れたあとも、私の日常は大きく変わることなく、穏やかな時の流れの中にあった。
朝早くに市場へ出向き、色鮮やかな朝焼けの空の下で、店先を彩る花々を丁寧に手入れする。
休みのたびに店を訪れる彼は、土に塗れたエプロン姿の私を愛おしそうに見つめ、時折その大きな手で私の頭を優しく、壊れ物を扱うかのように撫でてくれた。
そんな何気ない、静かな瞬間に、私は自分が心の底から大切にされ、一人の人間として真っ直ぐに愛されていることを実感し、これまでにない幸福感に満たされていた。
◇ ◇ ◇
そんなある日の午後。
陽の傾きかけた店先に、見慣れない豪奢な馬車が停まり、一通の手紙が届けられた。
上質な羊皮紙で作られた分厚い封筒。
差出人の欄には、王国の王太子、ディートリヒ・フォン・ファルサスの名が記されていた。
かつては流麗だったはずのその筆跡は、今はひどく乱れ、震えているように見えた。
ペーパーナイフで封を切り、中に目を通す。
『ルーシア、すべて私が悪かった。君がいなくなって初めて、君がどれほど私の支えになっていたか、どれほど愛していたかに気づいた。どうか戻ってきて、やり直してほしい』
インクの滲んだ文字からは、彼がどれほど切羽詰まり、血を吐くような思いでこの手紙をしたためたのかが痛いほど伝わってきた。
ところどころ紙が波打っているのは、彼が流した涙の痕なのだろう。
おそらく、私が残した緻密な引き継ぎ書だけでは国政を回しきれず、完全に破綻をきたしているのだ。
あれほど彼が優先していたリーゼロッテ様の我儘も、余裕を完全に失った今の彼には、ただの疎ましい重荷でしかないはずだ。
かつての私なら、その痛切な言葉と涙の痕に同情し、すべてを許して急いで手を差し伸べていたかもしれない。
過労で倒れるまで他人に尽くし続け、他人のためにしか自分の価値を見出せなかった、あの前世の私なら。
けれど、手紙を読み終えた私の心には、さざ波一つ立たなかった。
胸を焦がすような怒りも、過去への郷愁も、復讐を遂げたという昏い喜びすら湧き上がってこない。
ただ、遠い国の見知らぬ誰かの悲劇の知らせを読んだかのような、絶対的な無関心があるだけだった。
「……もう遅いです」
私はぽつりと、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
一度完全に冷え切ってしまった心は、どんなに後から熱い言葉や涙を注がれても、二度と温まることはない。
私は彼を憎んですらおらず、ただ、私のこれからの人生にはもう金輪際必要のない人だと、確かな実感を持って切り捨てていた。
私は店のカウンターから真新しい無地の便箋を取り出し、ペンを走らせた。
恨み言も、未練も、彼への偽善的な同情も一切書かない。
ただ一言だけ。
『もう遅いです。どうぞお幸せに』
たった一行、それだけを短く記し、冷たい事務的な手つきで封を閉じた。
私を縛り付けていた過去の理不尽な呪縛との、これが本当の意味での、完全で静かな決別だった。
もう二度と、彼のために私が一秒たりとも時間を割くことはない。
何の未練もなく手紙を出して店に戻ると、非番のレオンハルト様が私を待っていた。
「おかえり、ルーシア。今日は一段と花が綺麗に咲いているな」
傾きかけた柔らかな陽光が差し込む美しい花屋の店先で、彼は私を見つけるなり、春の陽だまりのように温かく柔らかく微笑んだ。
「ただいま戻りました、レオンハルト様」
彼がそっと手を差し出してくれる。
私は一切の迷いなくその分厚く大きな手を取り、彼を見上げて、今日一番の心からの笑顔を見せた。
彼は私の少し冷えた手を両手でしっかりと包み込み、宝物でも扱うかのようにそっと指先に口付けを落とす。
「君が笑ってくれるだけで、私はこの上なく幸せだ」
甘く、誠実な声。
誰かの都合の良い身代わりや存在としてではなく、ただ私自身を第一に想い、底なしの深い愛情を注いでくれる人。
もう、他人のための言い訳や、理不尽な優先順位に縛られることはない。
私の人生は、私のものだ。
瑞々しく香る色とりどりの花々に囲まれながら、私は彼と固く手を繋ぎ直した。
共に歩むこの穏やかで確かな未来を、心の底から愛おしいと思った。




