第99話 語られる前に語る者
夜が落ちた校舎には、音という音が吸い込まれたような静けさが漂っていた。
ひなたと理久は、最初に集合写真を見つけた教室に戻っていた。
窓の外には光がなく、ただ“輪郭だけの夜”が広がっていた。
「……書こう。ここで、“あったこと”じゃなく、“あってはならないこと”として」
ひなたは震える手で、ノートを開いた。
「“私はまだここにいる”って。消えかけてる写真の私じゃなくて、ここにいる、私を」
彼女は、黒板の前で立ち尽くす理久を見た。
その視線の先には、掲示された集合写真。だが、そこにあったはずの歪みは──消えていた。
いや、“歪んでいたという記憶”そのものが、存在していないような──そんな感覚。
「……構文が、強化された。“語られたくないもの”として」
「だから、“先に語る”の。私が私のまま語るの。存在を、記録として、遺すために」
「でも、もしもそれが……“触れちゃいけないライン”だったら?」
「語ることで、私が“その誰か”になるってこと?」
「いや。“語られた者”になることが、“存在の抹消”になるかもしれない。この構文は、“語ること=消去トリガー”の可能性もある」
ひなたは、ペン先をノートに落とした。
インクがしずくのように紙にしみ込んでいく。
《私の名前は、朝倉ひなたです。》
その瞬間、教室の蛍光灯がパチ、と一度だけ明滅した。
背後の黒板が、ほんのわずかに“ざわつく”音を立てた気がした。
理久が立ち上がる。
「……成功した?」
「わからない。でも、今の瞬間、私は“私としてここにいた”ことになる。誰かの記憶に、じゃなくて──私自身の記録に」
スマホを起動すると、カメラ越しに写る集合写真には、誰の姿も欠けていなかった。
全員が、ただ並んでいる。
その中に、ひなたの姿もあった。自然に、確かに。
「……じゃあ、これで、語られない構文の連鎖は──」
理久が言いかけたとき。
ひなたのスマホに、ひとつのメッセージが届いた。
「私の名前は、ナナミです。……あなたの隣に、いたことを覚えてる?」
その直後、写真の中央に、もうひとりの少女の姿が“追加”されていた。
目元にだけ、ほんのわずかにノイズが走っている。
制服の形、髪の長さ──どこか、ひなたに似ている。
「……この子、誰?」
ひなたの声は震えていた。
「今、語られた存在だ。君が“語った”ことで、記憶の中にいたその存在が──構文化された」
理久は、スマホの画面に目を凝らした。
そこに写る少女が、まるで静かに笑っているかのように見えた。
「もう終わったんじゃないの?」
「語ったから終わったんじゃない。語ったことで、別の“物語”が始まった」
「……じゃあ、私は……」
「“語り手”になった。ここからは、君が語らなければならない。“誰かを忘れないために”」
教室の窓が微かに揺れた。
夜風がカーテンを持ち上げる。そこに誰かがいたわけじゃない。
だが、“いないという記憶”すら語られる時代が来たのだ。
ひなたは、ノートを閉じた。
その表紙には、名前も日付も書かれていない。
──けれど、確かに“ここに語られた”痕跡だけが刻まれていた。
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