第98話 “あった”ことにされる
ひなたと理久は、教室を離れて廊下を静かに歩いた。
窓の光は夕暮れに近づき、柔らかなオレンジが壁を染めていたが、ふたりの視線は重く沈んでいた。
「理久……さっきの“誰か”、どう思う?」
ひなたがつぶやく。
「……ナナミだろうな。最初の“誰も知らない誰か”が、今ここでは“いる”とされようとしてる」
「でも、それって……どういうこと?」
「語られなくても、視認されただけで“語られた存在”になる。写真に写るだけでも、言葉をもってなくても、“あったこと”にされてしまう構造だ」
廊下には自分たちの影しか映っていないかのようだったが、その陰影はどこか歪んでいた。
――あの場所には、確かに“別の誰か”がいた。
そして今、その誰かが、“誰かを消してでも”居場所を作ろうとしている。
理久はポケットからスマホを取り出す。
さきほどのメッセージ通知画面が、不意に再表示された。
「誰かが、私を覚えているなら、“あの場所”に来て欲しい。」
送信元は相変わらず不明。
だが、そこに明確な意志が宿っていることは、ふたりにとって紛れもない事実だった。
「……来るって言ってる。呼ばれてるんだ」
「でも、行ったら……」
「語られる側に回ることになる。構文の“注入対象”ってことだ」
ひなたの足元がふらついた。
記憶と存在の境界が融解し、彼女自身が“誰だったのか”を揺るがされつつある。
「ねぇ、私……これからどうしたらいいの?」
「わからない。けど……選ぶしかない。語られる前に、語るべき構文を自分で書くか、“語らせる構文”に置かれるか」
「それって……」
「――“語る”という行為そのものが、呪いのトリガーになるか、“語らせる”という更なる感染に巻き込まれるか。でも、語られなかったまま終わるわけにもいかない」
彼女の視線が、そっと理久に向けられた。
「……じゃあ、私たちが、書こう。語るんじゃない。“語らせる前に、自分で語る”構文を、自分たちで設計する」
「“封名術”の上位構造か……語るけど、壊れさせない記述を、自分で書くんだな」
「そう。“あの場所”に行く前に。語りの主体を自分たちで持つんだ」
ふたりは歩を止め、目を合わせた。
決意のような沈黙だった。
――語られる前に、語る存在になる。
――漏れる前に、言葉の器になる。
その選択は、この構文の最終段階へと突き進む第一歩でもあった。
スピーカーから、遠くでチャイムの音がかすかに聞こえた。
夕焼けの影は、教室のドアにまっすぐ伸びていた。
その先──誰かが待っている。
「呼ぶ者」と「呼ばれる者」。
語りの最終幕が、幕を開けようとしている。
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