第95話 三度目のノック
コン、コン、コン──
その音は、理科室の厚い鉄扉越しに響いたとは思えないほど、やけに鮮明だった。
ひなたは息をのんで、理久の腕をぎゅっと掴んだ。
「……今の、誰かがノックした?」
「いや……違う。“誰か”じゃない」
理久の目が、いつになく鋭さを帯びていた。
「“三度”っていうのが重要なんだ。これは“構文起動の合図”……“語りの扉”が開かれる前の、サインだ」
ひなたは唾をのみこんだ。
足元の床が、微かにきしんでいる。誰かが廊下を歩いているわけではない。
まるで部屋そのものが、“誰かを迎え入れる準備”をしているかのような──静かなうねり。
カチッ。
照明が、一瞬だけフラッシュのように明滅した。
扉のノブが、ギィ……とゆっくり回った。
だが、誰も入ってこなかった。
ただ、扉は音もなく、ゆっくりと開かれていた。
「……“呼ばれた”ってこと?」
「たぶんそうだな。あの“声”が言ってた。“ここにいる”って」
理久は静かに歩みを進め、扉のすぐ前で止まる。
その先には、誰の姿もない。
だが、廊下の床に、小さな何かが落ちていた。
「これ……」
理久が拾い上げたのは、学生証だった。
名札の部分には、黒インクがにじんでいて読めない。
けれど、制服の写真には、うっすらと女子生徒の姿が写っていた。顔の半分はかすれていたが──
「この制服、うちのじゃん……」
「いや。形式が違う。肩章が旧式だ。少なくとも、五年以上前のデザインだ」
裏面には、かろうじて読める文字が一行だけ残っていた。
「記録されない生徒」
その言葉を見たとたん、ひなたの頭の中に、断片的な記憶が流れ込んできた。
──教室の片隅。
──誰かが、そこにいた気がする。
──でも名前が出てこない。
──顔も、声も、会話の内容すらも、思い出せない。
けれど、確かにそこに“何か”が存在していた感触だけが、焼きついていた。
「……これ、もう“構文が始まってる”ってことじゃん」
「いや。始まったというより、“語らせている”んだ」
理久は言う。
「“語ることで思い出す”んじゃなくて、“思い出せないから語ってしまう”。その順番の逆転。これが、この呪いの本質だ」
「語ってしまったら……?」
「“誰か”が、“誰でもなくなる”。存在の形式が塗り替えられる。“ナナミ”はもう、“一人”ではない。構文は既に、“集団記憶の器”になってる」
そのとき、スマホが震えた。
ひなたのポケットの中から通知音が鳴る。
画面にはこう表示されていた。
「あなたは“ナナミ”を知っていますか?」
アカウントの発信元は不明。フォローもしていない。誰もいないはずの存在。
だが、問いかけは明確だった。
「これ、“問われてる”んだ……」
「答えたら、構文がさらに浸透する。語らせるための呼び水。──まだ答えるな」
理久は、画面を睨む。
そしてゆっくりと呟いた。
「……これはもう、“廊下を歩いている”んじゃない。“記憶の裏側を這ってる”んだ」
ふたりは黙りこみ、扉の向こうを見つめた。
そこには、確かに誰もいない。
けれど“見えていないだけ”なのだと、ひなたは直感していた。
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