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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第94話 存在しなかった証明

 赤いペンの文字──「ここにいた」──を見つめるひなたの指先が、震えていた。

 ページは破れていない。インクのにじみもない。

 だが、ほんの数秒前までこのページには、何も書かれていなかったはずだった。


「……今、書かれた?」


「いや。**最初から書かれてたけど、“見えなかった”**んだ」


 理久が言った。


「“構文視認制御”。ある種の錯視構造で、見る者が“語る準備”を整えない限り、内容が可視化されない。つまり、今お前が“語ろうとした”から、見えた」


 ひなたはそっと視線を下げ、赤い文字を指先でなぞる。

 確かな触感。筆圧の強い線。

 けれど、指先にはインクの感触すらない。


「これ……“ナナミ”のもの?」


「おそらく。“語られなかった誰か”が、最後に残した“視覚の痕跡”だ。記録ではなく、記憶の外郭だけが今も残ってる」


「ねえ、理久。この“ナナミ”って……」


「ダメだ。名前を完全に呼ぶな。“記号化されていたもの”を言語化すると、構文が再構築される。構文は、意味として完成した瞬間に侵食を始める」


 ひなたは言葉を飲み込んだ。

 机の上のノートが、まるで自分を見ているように思えた。


 それが“記録”として再生された瞬間、存在は侵入してくる。


「この子が……この“誰か”が、どうして忘れられたの?」


「たぶん、儀式だった。古い構文で、“語られないこと”が何かを守る形式。けど、それが何らかのきっかけで壊れた。たとえば──」


 理久が顔をしかめた。


「──“誰かが、その子のことを、語ってしまった”」


 ひなたは言葉を詰まらせた。

 教室での、放課後の、ふとした会話──


 たしかに誰かが言っていた。


「あれ? 一番左の席、誰かいたっけ?」


 その言葉が、何かを“壊した”のかもしれない。

 それは記憶のノイズではなく、“語り”として成就してしまった呪いの発火点。


 理久が言う。


「この“ナナミ”は、“語られる”ことで、今また構文に変わりつつある。ただの記憶じゃない。“語られる存在”として、今度は別の形で出てくる可能性がある」


「どういうこと……?」


「“忘れられていた存在”が、“語られる構文”として蘇る。つまり、“ナナミ”という個人が、今度は“語らせる装置”になって出てくるかもしれない」


「……そんなの、ひどい」


 そのときだった。

 部屋のスピーカーが、ピッ……と小さな起動音を立てた。


 校内放送は終わっているはずだった。

 だが、微かにノイズが走り、そして──


 「……わたし、ここにいるよ」


 耳元でささやかれたような、震えるような声だった。


 ひなたは反射的に振り返った。

 誰もいない。

 ただ、スピーカーのランプが、微かに赤く点滅していた。


 理久が呟いた。


「……構文が、形を持ち始めている」


「今の……“声”だよね?」


「ああ。いまこの学校で、“語られ始めた存在”が、“音”として回帰し始めた。次に起こるのは、“言葉にした人間”の構造変化だ」


 ひなたの背筋に冷たい汗が流れる。


「じゃあ……あのとき、“誰かいたっけ”って言った人は……?」

「おそらく──」


 理久が言葉を継ごうとしたその瞬間、扉の向こうで、何かが“ノック”した。

 コン、コン、コン。


 三度だけ、小さく──しかし明確に響いた。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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