第94話 存在しなかった証明
赤いペンの文字──「ここにいた」──を見つめるひなたの指先が、震えていた。
ページは破れていない。インクのにじみもない。
だが、ほんの数秒前までこのページには、何も書かれていなかったはずだった。
「……今、書かれた?」
「いや。**最初から書かれてたけど、“見えなかった”**んだ」
理久が言った。
「“構文視認制御”。ある種の錯視構造で、見る者が“語る準備”を整えない限り、内容が可視化されない。つまり、今お前が“語ろうとした”から、見えた」
ひなたはそっと視線を下げ、赤い文字を指先でなぞる。
確かな触感。筆圧の強い線。
けれど、指先にはインクの感触すらない。
「これ……“ナナミ”のもの?」
「おそらく。“語られなかった誰か”が、最後に残した“視覚の痕跡”だ。記録ではなく、記憶の外郭だけが今も残ってる」
「ねえ、理久。この“ナナミ”って……」
「ダメだ。名前を完全に呼ぶな。“記号化されていたもの”を言語化すると、構文が再構築される。構文は、意味として完成した瞬間に侵食を始める」
ひなたは言葉を飲み込んだ。
机の上のノートが、まるで自分を見ているように思えた。
それが“記録”として再生された瞬間、存在は侵入してくる。
「この子が……この“誰か”が、どうして忘れられたの?」
「たぶん、儀式だった。古い構文で、“語られないこと”が何かを守る形式。けど、それが何らかのきっかけで壊れた。たとえば──」
理久が顔をしかめた。
「──“誰かが、その子のことを、語ってしまった”」
ひなたは言葉を詰まらせた。
教室での、放課後の、ふとした会話──
たしかに誰かが言っていた。
「あれ? 一番左の席、誰かいたっけ?」
その言葉が、何かを“壊した”のかもしれない。
それは記憶のノイズではなく、“語り”として成就してしまった呪いの発火点。
理久が言う。
「この“ナナミ”は、“語られる”ことで、今また構文に変わりつつある。ただの記憶じゃない。“語られる存在”として、今度は別の形で出てくる可能性がある」
「どういうこと……?」
「“忘れられていた存在”が、“語られる構文”として蘇る。つまり、“ナナミ”という個人が、今度は“語らせる装置”になって出てくるかもしれない」
「……そんなの、ひどい」
そのときだった。
部屋のスピーカーが、ピッ……と小さな起動音を立てた。
校内放送は終わっているはずだった。
だが、微かにノイズが走り、そして──
「……わたし、ここにいるよ」
耳元でささやかれたような、震えるような声だった。
ひなたは反射的に振り返った。
誰もいない。
ただ、スピーカーのランプが、微かに赤く点滅していた。
理久が呟いた。
「……構文が、形を持ち始めている」
「今の……“声”だよね?」
「ああ。いまこの学校で、“語られ始めた存在”が、“音”として回帰し始めた。次に起こるのは、“言葉にした人間”の構造変化だ」
ひなたの背筋に冷たい汗が流れる。
「じゃあ……あのとき、“誰かいたっけ”って言った人は……?」
「おそらく──」
理久が言葉を継ごうとしたその瞬間、扉の向こうで、何かが“ノック”した。
コン、コン、コン。
三度だけ、小さく──しかし明確に響いた。
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