第93話 記録されなかった席
理科室の鍵は、以前から壊れていた。
ひなたと理久は、無人の放課後、管理棟の階段をそっと降りていく。
少しひんやりした空気と、石造りの床が、どこか音を吸い込むような静けさをまとっていた。
重い扉を開けると、薬品と埃の匂いが一気に鼻をついた。
ガラス棚の中には、色の抜けた植物標本や古びたビーカーが並んでいる。
その奥。教卓に一番近い左端の机。
理久が、そっと指差した。
「あそこだ。“存在記録のない席”──最初の“名前なき生徒”が座っていた場所」
「……その人、名前も……?」
「ああ。名簿にも出席簿にもない。けれど複数の生徒が“話していた”って証言してる。存在が“記憶”にはある。でも、“記録”には残ってない」
「つまり……語られたけど、書かれていない?」
「正確には、“書かれたことが抹消された”。記録自体が“書かれた痕跡ごと消えてる”。ログの削除とは違う、意味そのものの欠損だ」
理久は席の裏にしゃがみこみ、床を手で探る。
パイプ椅子の脚の隙間。そこに、ひとつの“刻印”があった。
それは、数字だった。
他の席には見られない、不規則な“番号”。ただの傷に見えるが、削れている方向が異なる。
工具でわざと“内側から”掘られた跡──
「これは、“番号じゃない”。“名前を語らないための構文記号”だな」
「それって……言葉を記録しないってこと?」
「いや。“言葉が記録される直前で止まるように仕掛けられた”、構造妨害式の“消去ルーン”だ。書かれたものを、存在以前に戻すための構文だよ」
理久はスマホを取り出し、ルーンの形状を3Dスキャンした。
記号が内部で“展開する構造”を持っていることがわかる。
それは、視覚情報に反応して“消去命令”を発動する形式だった。
「これが……“見るだけで、語れなくなる”記号……?」
「“存在の意識化を遮断する仕組み”だな。これがこの席に貼られていたってことは──ここが、最初の“封じ場”だった」
「じゃあ、誰かが“語った”から、この構文が壊れた……?」
「たぶん、“名前を記憶に呼び戻した”とき、構文が破れたんだ。誰かが思い出したんだよ、“ここにいた”ということを」
ひなたは、机の下をのぞきこむ。
そこに、小さな落書きのような線が見えた。
爪でひっかいたような不規則な線。それは“ただの記号”のように見えるが──
「これ……“ナナミ”って、読める……?」
「……そうか。やっぱり、“ここ”が起点だ」
ひなたが見たその線──それは、誰かが“最後に自分の名前を刻もうとした”痕跡。
だが、記録にも、誰の記憶にも残っていないはずだった名前が、そこに微かに残っていた。
「構文はまだ完全には封じられてない。“語りの残滓”が、形だけ残ってる」
「それじゃあ、また誰かが“見る”ことで──」
「うん。再起動する」
その瞬間、室内の電灯が微かに揺れた。
何の風もないのに、棚のガラスが小さく震えた。
ふたりは無言で顔を見合わせる。
机の上のノートが、一枚だけ捲れた。
何も書かれていないページの中央に、赤いペンでこう書かれていた。
「ここにいた」
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