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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第90話 最後の語り主

 理久は静かに口を閉ざしていた。


 教室に広がる黒板の記号。廊下の掲示。チャットアプリのステータスメッセージ。

 すべての場所に、“あの名前”を意味しようとする文字列が、染み込むように出現していた。


 それらはすでに、誰かの“語りたい”という無意識を通じて、拡張していた。


「……このままだと、学校全体が“語りの装置”になる」


 理久は低くつぶやいた。


 彼の視線の先、掲示板の落書きに重ねられていたメモ紙には──


「ナナメって誰?」「なんか最近話題じゃない?」「都市伝説?」


 語りたくて仕方ない欲求が、曖昧な共感とともに、ゆるやかに拡散していた。

 

 ひなたは目を伏せる。


 七海の名前が消えた名簿を、震える手で握りしめながら。


「……わたし、もう彼女の声、忘れかけてる」


「語られなければ、“存在しなかった”ことになる。それが“語らせる呪い”の本質だ」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「“語る”ことの回路を、物理的に遮断するしかない」


 そのとき、理久の手元にあった一枚の資料。


 古い民俗学の記録だった。

 

 ――“ナの神”と呼ばれる地域信仰。


 語ることを禁じられた存在で、名をつけた者から順に、村から姿を消したという。


 だがひとつだけ、封印の方法があった。


『語りを拒む装置』を建てること。

すなわち、“誰もが語れない空間”をつくり、そこに名前を記す。

その記述は“読むことすらできない”形式でなければならない。


 理久は立ち上がる。


「……やるしかない。“語れない記述”を作って、それにすべてを封じる」


「そんなことできるの?」


「できる。誰にも読めない文字列で、ただ“記録だけ”をする。意味を与えず、誰も語れない記録を、完全に外部に送る」


「それって……“誰にも読まれない手紙”みたいなもの?」


「ああ。だけど、受信者がいなければ、“語り”にならない。語られない記録としてなら、存在を閉じ込められる」


 二人は深夜、理久の自宅の地下室──機械類に囲まれた記録室へ向かった。


 理久が組み立てた構文エンコーダに、“意味を持たない文字列”が打ち込まれていく。

 

☒ナ・ナ・メ

 

「この文字列は、音にも形にも変換されない形式で保存される。誰も語れず、誰も見られず、ただ記録されるだけのデータになる」


「それで……終わるの?」


「終わらせる。“語らせる構文”をここに閉じる」


 最後に、ひなたが小さくつぶやく。


「……七海のこと、忘れたくない」


「忘れるんじゃない。記録するんだ。“語らずに、記録する”」


 保存ボタンを押した瞬間──


 部屋中の機器が一斉に停止し、照明が一度、音もなく消えた。

 

 “語りの主体”は、構文として封じられた。


 誰にも読めず、誰にも話せない形式で。


 だが──


 エンコーダのログには、ただひとつだけ奇妙なエラーが残った。


【処理失敗】

“記号内に既知の“語彙パターン”が挿入されています。記号は、すでに言語化されました”


「……え?」


 理久がログを読み返す。


「ウソだ……もう“意味が与えられてた”? 誰かが……“言葉”をくれたのか?」


 再び機器の電源が入り直したとき、保存フォルダの中に、一行のファイル名が残っていた。


“ナナミ”


 七海は、語られないままではなかった。


 誰かが、彼女の名を、再び“語った”。


 語られた記録は──

 語られる構文へと変貌して、復活を始めていた。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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