第83話 拡張される語り
日常に戻ったはずの教室で、ひなたはノートを開いていた。
文字が、ない。
自分で書いたはずのページに、内容がごっそりと抜け落ちている。
「……え?」
ページを何度めくり直しても、そこには“書かれていた気配”しか残っていない。インクの痕跡もなく、消し跡もない。
だが、ひなたの中には確かに、“そこに何かを書いた記憶”だけが残っていた。
「おい、ひなた。さっきのノートのことだけど」
理久が背後から声をかけた。
「……見た?」
「ああ。“見えた”。けど、それだけだ」
「やっぱり……忘れさせられてる」
教室の窓から、午後の日差しが差し込む。世界は何も変わっていないように見える。だが、“言葉にならない欠落”が、日常の端々にじわじわと染み出していた。
放課後、図書館。
理久はPCを使って、ある記録を検索していた。ひなたが霧鳴温泉で撮影したはずの写真、あの時宿で見つけた札、誰かが消えていた帳簿。
すべて、記録に存在しない。
「……投稿が、空白になってる」
理久がモニターを指差す。
ある匿名掲示板のログには、何十もの連投がある。だが、すべての投稿本文が“空白”になっていた。
時刻だけが並び、内容はすべて削除されたかのように「無記入」。
それなのに──
返信1:お前それ言ったらダメだって!
返信2:うわ、また始まった……
返信3:あの話ってまだ残ってたんだ…
「“語られたもの”が忘却されてるのに、“語った痕跡”だけは残ってる……」
「なんか、ネットの構文が“感染”してる感じするよね。言った本人も内容を思い出せない。なのに、周りが反応してる」
「その反応も、だんだん“言葉にならなく”なってきてる」
理久が言うとおりだった。
掲示板の書き込みは、次第に意味を成さない断片に変わっていた。
投稿A:…………。
投稿B:あれ……。
投稿C:
投稿D:(見た)
“語ることで起動する呪い”が、記憶そのものを浸食し、
さらに今度は“意味を奪っていく”フェーズに入っていた。
「ねえ……」
ひなたがぽつりとつぶやいた。
「これ、もしさ、“語らなかったこと”まで失われたら……あたしたち、何が本当だったかすらわかんなくなるんじゃない?」
理久は頷かない。ただ、モニターに向き直り、無言でログを保存する。
「構文が拡張してる。俺たちが止めないと、忘れるべきでない記憶まで、全部空白にされる」
「でも、どうやって……?」
「“語ってはならない”なら、“構文の内側から書き換える”。」
「え?」
「つまり、呪いの“記述構造”そのものに、“上書き”をかける。方法はある。あの札……あれをもう一度使う。今度は“記録を残すため”にだ」
語られた記憶が消え、残された空白だけが“語り”として拡散される。
その現象は、すでに掲示板だけでなく、
SNS、チャット、動画コメント欄、ブログ、メモアプリ──あらゆる“書かれる場所”に広がりつつあった。
その夜。
ひなたは夢の中で、“何か”に追われる感覚を覚えた。
影も、顔もない存在。
ただ「言葉だけが剥がれていく」感覚。
名前を呼ばれるたびに、自分が自分でなくなる。
「……わたし、だれ?」
目が覚めたとき、ひなたのノートは──再び真っ白になっていた。
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