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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第82話 忘却奇譚

 翌朝、霧鳴温泉には鳥の声が響いていた。昨夜の重苦しい空気はどこかへ消え、まるで何事もなかったかのように、宿は日常を取り戻していた。


 帳場では、あやがいつも通り客のチェックアウトを手伝っていた。

 記録簿の中に、違和感はない。削除された履歴も、戻された記憶も存在しない。


「……あれ? 九条さんたち、いつ帰ったの?」


 あやがふと口にする。


「昨日のうちに帰るって言ってたけど……なんか、夢みたいだったな」


 一方、ひなたと理久は帰りのローカル線に揺られていた。


「ねえ、あの札……どうなったと思う?」


「宿に置いてきた。あの構文は、もう俺たちが語る必要はない。誰かが“語ってしまった”ときに、そいつを導くための鍵としてあそこにある」


「じゃあ、また誰かが……?」


「語るよ。絶対に。だから宿は続いていく。“忘れる”ことで成立する物語なんだ、あれは」

 

 ひなたは車窓の外を見た。

 霧鳴の山々は、朝日に照らされて柔らかく光っている。その風景の中に、何かを語りかけてくるような気配があった。


「人って、どうして忘れたがるんだろうね」


「違うな。“忘れるしかない”んだ。覚えていることは、苦しみになるから」


「でも、語らなきゃ残らない」


「だから“選ばなきゃいけない”。何を語り、何を沈黙で継ぐかをな」


 沈黙が二人の間に訪れる。

 だが、その沈黙はもはや重苦しいものではなかった。


 ひなたは鞄の中から、ひとつのノートを取り出す。表紙には何も書かれていない。ただ、真っ白なページがあるだけ。


「ねえ、これから“書いてもいい”かな。あたしが、あたしの言葉で、“語らなかったこと”について」


「いいさ。読まれるかどうかは別として、“残す”ってのは、そういうことだ」


「……そっか。じゃあ、語らないことを、書くよ」

 

 ペンが紙をなぞる音が車内に響く。

 その文字は、誰にも読まれないかもしれない。だが、確かに今ここにある。

 

 【忘却奇譚】──その物語は、「誰も語らなかった物語」として、確かに終わりを迎えた。

 

 だが、あなたがこの物語を「読んだ」その瞬間から──


 語られなかった“何か”は、再び息を吹き返しているのかもしれない。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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……どうか、次回の更新までご無事で。

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