第82話 忘却奇譚
翌朝、霧鳴温泉には鳥の声が響いていた。昨夜の重苦しい空気はどこかへ消え、まるで何事もなかったかのように、宿は日常を取り戻していた。
帳場では、あやがいつも通り客のチェックアウトを手伝っていた。
記録簿の中に、違和感はない。削除された履歴も、戻された記憶も存在しない。
「……あれ? 九条さんたち、いつ帰ったの?」
あやがふと口にする。
「昨日のうちに帰るって言ってたけど……なんか、夢みたいだったな」
一方、ひなたと理久は帰りのローカル線に揺られていた。
「ねえ、あの札……どうなったと思う?」
「宿に置いてきた。あの構文は、もう俺たちが語る必要はない。誰かが“語ってしまった”ときに、そいつを導くための鍵としてあそこにある」
「じゃあ、また誰かが……?」
「語るよ。絶対に。だから宿は続いていく。“忘れる”ことで成立する物語なんだ、あれは」
ひなたは車窓の外を見た。
霧鳴の山々は、朝日に照らされて柔らかく光っている。その風景の中に、何かを語りかけてくるような気配があった。
「人って、どうして忘れたがるんだろうね」
「違うな。“忘れるしかない”んだ。覚えていることは、苦しみになるから」
「でも、語らなきゃ残らない」
「だから“選ばなきゃいけない”。何を語り、何を沈黙で継ぐかをな」
沈黙が二人の間に訪れる。
だが、その沈黙はもはや重苦しいものではなかった。
ひなたは鞄の中から、ひとつのノートを取り出す。表紙には何も書かれていない。ただ、真っ白なページがあるだけ。
「ねえ、これから“書いてもいい”かな。あたしが、あたしの言葉で、“語らなかったこと”について」
「いいさ。読まれるかどうかは別として、“残す”ってのは、そういうことだ」
「……そっか。じゃあ、語らないことを、書くよ」
ペンが紙をなぞる音が車内に響く。
その文字は、誰にも読まれないかもしれない。だが、確かに今ここにある。
【忘却奇譚】──その物語は、「誰も語らなかった物語」として、確かに終わりを迎えた。
だが、あなたがこの物語を「読んだ」その瞬間から──
語られなかった“何か”は、再び息を吹き返しているのかもしれない。
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