第80話 忘れられるということ
夜の帳が降りる頃、霧鳴温泉の宿は静寂に包まれていた。客のいない廊下は、軋む音さえ立てない。まるで、この建物そのものが、何かを「思い出すこと」を避けているかのようだった。
「……ねえ、理久。人って、いつから“忘れる”ようになるんだろうね」
ひなたの声は、温泉の湯気とともに静かに響く。二人は浴場の縁に腰かけ、ぬるめの湯に足を浸していた。
「生まれた瞬間から、だろうな。人間の脳は“保持”よりも“削除”の方が得意なんだ」
「じゃあ、“覚えてる”って、すごく不自然なことなんだ?」
「……ああ。記憶ってのは、本来ノイズの塊だ。たまたま“定着”したものが、偶然にも“自分”を構成してるだけだ」
ひなたは頷きながらも、どこか納得のいかない表情を浮かべた。
「でも、誰かを忘れるって──やっぱり、痛いよね」
湯気の向こうに、帳場の明かりがぼんやりと揺れていた。
宿の記録帳には、今も“開かずの部屋”の履歴が載っていない。そこに泊まったはずの人物の名前も、痕跡も、完全に消されている。
「さっき、あやちゃんが言ってたよ。『もうこれで全部元通り』って」
「……なってねぇけどな」
「うん。わたしたち、まだ“その人”のことを覚えてる。名前はないけど、確かにここにいたって知ってる」
「知ってることが呪いになるかもしれないぞ」
「それでも、知らなかったことには戻れない」
二人は湯を上がり、浴衣に袖を通す。夜風が吹き込み、ひなたの髪がふわりと揺れた。
「ねえ、次に誰かがこの宿に来たら、どうなるんだろう」
「忘れられた名を、再び“語って”しまったら──構文は再起動する。だからこの宿には“語らない”という掟が必要だったんだ」
「でもその掟も、誰かが伝えなきゃ意味がない」
「……だから皮肉なんだ。“語らずに伝える”方法なんて、本来、あり得ない」
理久は懐から、一枚の紙を取り出した。それは、二十一番の部屋から回収した札だった。
墨で塗られたように見えたそこには、今はかすかな“名前の跡”が浮かんでいるようにも見える。だが読めない。発音もできない。
「これを……どうするの?」
「持って帰る。あえて、持ち続ける。“記録の断片”としてな」
「でも、それって……」
「危険だ。けど、もう消えた人間の代わりに語る者がいないなら、それすら残らなくなる」
ひなたは黙ってその札を見つめた。
「……ありがとう」
「なにがだよ」
「誰かを、ちゃんと覚えててくれること」
理久はふっと笑って、背を向けた。
「この章、そろそろ閉じるか。あと二話で締める」
「うん。ちゃんと、語れるうちに」
廊下の灯が少しだけ揺れた。
その瞬間、一瞬だけ、どこかから風のような声が聞こえたような気がした。
――ありがとう、って。
だが、それは二人のどちらも聞き取れなかった。
“名前のない祈り”は、誰にも語られぬまま──そっとこの宿の壁に染み込んでいった。
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