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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第79話 語りなき残響

 帳場の裏にある納戸は、旅館の誰も近づかない場所だった。

 宿を継いだあやの父も、祖母も、なぜかその部屋だけは「開けるな」と言い残したまま他界したという。


 理久は畳に腰を下ろし、昨日の儀の記録をひとつひとつ書き起こしていた。だが、文字を記す指先がときおり止まる。


「……言葉にできない記録は、果たして記録と言えるのか」


 声に出すことも、書くこともできない“名前”を扱う──それは思考に影を差す行為だった。


 そこへ、ひなたが入ってくる。


「ねえ、今朝のことなんだけど……」


「また誰か、忘れてたのか」


「ううん、違うの。今朝、あやちゃんが“どうしてこんなに部屋数があるのか”って不思議がってて」


「……部屋の記録が、抜けてる?」


「多分、泊まってた“誰か”が忘れられただけ。でも、もう彼女には“誰も来てなかった”ようにしか思えない」

 

 理久は手を止めて立ち上がる。

 宿の構造図を広げ、居住区にあたる部屋番号を一つずつ指でなぞった。


「十五番、十六番……ここ。二十一番の記録だけが、飛んでる。ログがない」


「じゃあ、そこに“いた人”が……」


「語られず、記録されず、存在の枠から抜け落ちた」

 

 理久は静かに襖を開けた。

 廊下を渡って、二十一番の部屋の前に立つ。襖には鍵も何もない。ただ、開けようとすると、かすかに手が止まった。


「ひなた。中、見たいか?」


「見たくない。でも、見るしかない。そうでしょ?」


 理久が頷き、襖を開ける。

 

 そこには、ただの畳と、布団と、小さな箪笥。どこにでもある客室だった。だが、異様だったのは──


 天井に吊るされた“札”のようなもの。


 よく見ると、それは白紙ではなかった。淡く、うっすらと名前のような線が描かれている。だが、読めない。輪郭だけが、記憶のように残されていた。


「これが、“語られなかった名”の行き場か……」


「宿自体が、“忘却”を構造化してる?」


「可能性はあるな。この場所が記憶の“受け皿”になってるとすれば──語れないまま、ここに“残る”」


 ひなたはおそるおそる手を伸ばし、その札に触れようとした。


 しかし──


 ばちん、と空気が弾ける音がして、札がぱらりと落ちた。


 その瞬間。


 部屋中に、何かが走り抜けたような風が吹いた。


「今の……何?」


「記録の残響。語られなかった名の“残り香”だ」

 

 理久は札を拾い上げ、持っていたメモ帳に挟んだ。


「これ以上は踏み込まないほうがいい。“思い出す”ことすら、構文を再起動させかねない」


「じゃあ……これは?」


「“語れないまま保存された存在”を、そっと閉じておくための、忘却の箱だ。俺たちが扱えるのは、あくまで“語られた物語”だけなんだよ」


 二人は静かに襖を閉めた。


 その先で、再び風が揺れた気がしたのは、気のせいだろうか。


 語られなかった名は、今もなおこの宿のどこかで──記録の隙間に漂っている。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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