第79話 語りなき残響
帳場の裏にある納戸は、旅館の誰も近づかない場所だった。
宿を継いだあやの父も、祖母も、なぜかその部屋だけは「開けるな」と言い残したまま他界したという。
理久は畳に腰を下ろし、昨日の儀の記録をひとつひとつ書き起こしていた。だが、文字を記す指先がときおり止まる。
「……言葉にできない記録は、果たして記録と言えるのか」
声に出すことも、書くこともできない“名前”を扱う──それは思考に影を差す行為だった。
そこへ、ひなたが入ってくる。
「ねえ、今朝のことなんだけど……」
「また誰か、忘れてたのか」
「ううん、違うの。今朝、あやちゃんが“どうしてこんなに部屋数があるのか”って不思議がってて」
「……部屋の記録が、抜けてる?」
「多分、泊まってた“誰か”が忘れられただけ。でも、もう彼女には“誰も来てなかった”ようにしか思えない」
理久は手を止めて立ち上がる。
宿の構造図を広げ、居住区にあたる部屋番号を一つずつ指でなぞった。
「十五番、十六番……ここ。二十一番の記録だけが、飛んでる。ログがない」
「じゃあ、そこに“いた人”が……」
「語られず、記録されず、存在の枠から抜け落ちた」
理久は静かに襖を開けた。
廊下を渡って、二十一番の部屋の前に立つ。襖には鍵も何もない。ただ、開けようとすると、かすかに手が止まった。
「ひなた。中、見たいか?」
「見たくない。でも、見るしかない。そうでしょ?」
理久が頷き、襖を開ける。
そこには、ただの畳と、布団と、小さな箪笥。どこにでもある客室だった。だが、異様だったのは──
天井に吊るされた“札”のようなもの。
よく見ると、それは白紙ではなかった。淡く、うっすらと名前のような線が描かれている。だが、読めない。輪郭だけが、記憶のように残されていた。
「これが、“語られなかった名”の行き場か……」
「宿自体が、“忘却”を構造化してる?」
「可能性はあるな。この場所が記憶の“受け皿”になってるとすれば──語れないまま、ここに“残る”」
ひなたはおそるおそる手を伸ばし、その札に触れようとした。
しかし──
ばちん、と空気が弾ける音がして、札がぱらりと落ちた。
その瞬間。
部屋中に、何かが走り抜けたような風が吹いた。
「今の……何?」
「記録の残響。語られなかった名の“残り香”だ」
理久は札を拾い上げ、持っていたメモ帳に挟んだ。
「これ以上は踏み込まないほうがいい。“思い出す”ことすら、構文を再起動させかねない」
「じゃあ……これは?」
「“語れないまま保存された存在”を、そっと閉じておくための、忘却の箱だ。俺たちが扱えるのは、あくまで“語られた物語”だけなんだよ」
二人は静かに襖を閉めた。
その先で、再び風が揺れた気がしたのは、気のせいだろうか。
語られなかった名は、今もなおこの宿のどこかで──記録の隙間に漂っている。
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