第78話 名前のない祈り
霧鳴温泉の朝は、底冷えするような澄んだ空気に包まれていた。窓ガラスに露の粒が静かに垂れ、庭の樹木が薄く白んだ光をまとっている。
理久は帳場の奥で一冊の古びた記録簿を読み返していた。昨夜の儀から一夜明けても、忘却の構文はまだ室内に残っているような気配がした。ページには墨で塗りつぶされた呼称がいくつもあったが、理久の胸には、一つだけ明確な音韻が残っていた。
「…“……ミヤハラノ…”」
理久は呟いた。だが声には明瞭さがなく、残響のように消えた。
そのとき、廊下の足音がゆっくりと帳場の襖を叩いた。
「理久…」
ひなたの声だ。彼女が部屋に入ると、小さな紙袋を手渡してきた。
「これ、……あやちゃんが、“祈りたい”って言ってた。名前がわからなくても、“その子”に届くようにって」
袋の中には、小さな白い折り鶴と、短いメモ紙。
ひなたは小声で読み上げた。
「“名もなき祈りを、この宿に捧ぐ。語らぬ義務を、誓いとする”」
理久はしばらくそれを見つめた後、ゆっくりとうなずいた。胸の奥に渦巻いていた虚無と不確かさが、ほんの一瞬だけ収まった気がした。
二人は、静かに手を合わせて、その折り鶴を帳場の奥の棚に置いた。
「…忘却の構文は、完全に閉じたわけじゃない。けれど、“語られた名”が誰かに開かれる限り、再起できる構造ではある」
ひなたが遮るように言った。
「だから、“語られないこと”を選ぶことで、呪いの再起動を阻む。それが、今回の“記憶の封印”の本質なのね」
理久は戸を開け、廊下に出た。夜明けの柔らかな光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
「…次に誰かが来ても、何も聞かれたくないな」
ひなたは静かに笑んだ。
「あやちゃんの名前は忘れても、わたしは覚えてるよ」
「……それだけで充分だろ」
午後。宿の大広間には、誰もいなかった。セットされた布団、空になった食事折、所々に残された手書きの伝票──それらが、かつてここに“語られた存在”がいた証だった。しかし、そのすべてから香りのような記憶が薄れていた。
理久とひなたは静かに机に向かい、ノートを開く。
儀式的に使われた折り鶴とメモは、記録ノートの最後のページに挟まれた。
「…この章をあと3話くらいで閉じようか」
理久が静かに言った。
「うん。語られるものはもうないし、“語られなかったもの”の余韻を大切にしたい」
夕暮れが窓を赤く染め、廊下の先に長い影が伸びた。
ひなたは目を細め、遠くの山稜を見つめた。
「語らないこと、覚えていること。それが、私たちの生きる形になるのかもしれないね」
理久は苦笑した。
「どう転んでも、“誰かの記憶”は残る。たとえ語られなくてもな」
そして、二人は静かに立ち上がり、ゆっくりと廊下を歩き始めた。
その足音が、大広間から、帳場へ、廊下を越えて、夕光のなかに溶けていく。
語られないのに、忘れられない者たちのための「名前のない祈り」は、こうして誰にも知られずに、封じられたかのようだった。
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