第77話 名を語らずに記憶する
夜がふけ、宿はしんと静まり返っていた。
理久はひとり、帳場の隅に座っていた。蝋燭の揺れる光の中で、薄い和紙を一枚広げている。その上には、墨で描かれた名前があった。けれど、それは誰にも読めないよう、漢字を崩し、順序を入れ替え、形を曖昧にしていた。
「……名前とは、意味を与える装置だ。けれど、意味だけが呪いになるわけじゃない」
そう呟くと、理久はその紙を折りたたみ、小箱に入れた。
ちょうどそのとき、ひなたがそっと戸を開けた。
「やっぱり……いた」
「来るなって言っただろ」
「そんなの無理に決まってる。……理久、ほんとにやるの?」
「俺だけが“その子”の名を記憶に刻む。その代わり、誰にも語らない。“名前”として他人と共有しなければ、呪いはそれ以上拡がらない」
「それって、つまり……」
「忘れられるってことだ。語れない名は、存在しないも同然。俺の記憶のなかでだけ、“その子”は生きる。でも、それを誰にも伝えられない」
ひなたは理久のそばに膝をつき、黙って彼の目を見た。
「……それが、あなたのやり方なの?」
「お前はわかってるだろ。言葉にできないものだけが、時には世界を守るんだ」
その夜、封じの儀が始まった。
帳場の奥、誰も使われていなかった座敷に、理久とひなた、そして羽木あやの三人が集まる。床の間には三方に白紙が載り、その中央に理久が記した折り紙の小箱が置かれた。
ひなたが手順を読み上げる。
「“この名、我にあらず。記し、語らず、渡さず”。……“一人の記憶とともに、眠れ”」
部屋の空気が一変した。
風もないのに、畳の上を風が通り抜けたような感触が走る。次の瞬間、蝋燭がふっと消えた。
「終わったの……?」
理久はゆっくりと目を開けた。
「わからない。だが、これ以上、“その名”が他人に渡ることはない」
翌朝。
羽木あやは、まるで夢から覚めたかのように起き上がった。
「……あれ? 私……」
「大丈夫。もう“その子”はここにいない」
ひなたが静かに微笑む。
だが、そのときだった。あやの表情が曇る。
「ごめん……名前、思い出せないや。昨日、誰の話をしてたっけ……?」
ひなたは応えようとしたが、口が開かなかった。
彼女自身も──“その名前”を、もう、思い出せなかったのだ。
ただひとり。
理久だけが、記憶の奥底に“その名”を沈めたまま、何も語らず、立ち尽くしていた。
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