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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第77話 名を語らずに記憶する

 夜がふけ、宿はしんと静まり返っていた。


 理久はひとり、帳場の隅に座っていた。蝋燭の揺れる光の中で、薄い和紙を一枚広げている。その上には、墨で描かれた名前があった。けれど、それは誰にも読めないよう、漢字を崩し、順序を入れ替え、形を曖昧にしていた。


「……名前とは、意味を与える装置だ。けれど、意味だけが呪いになるわけじゃない」


 そう呟くと、理久はその紙を折りたたみ、小箱に入れた。

 ちょうどそのとき、ひなたがそっと戸を開けた。


「やっぱり……いた」


「来るなって言っただろ」


「そんなの無理に決まってる。……理久、ほんとにやるの?」


「俺だけが“その子”の名を記憶に刻む。その代わり、誰にも語らない。“名前”として他人と共有しなければ、呪いはそれ以上拡がらない」


「それって、つまり……」


「忘れられるってことだ。語れない名は、存在しないも同然。俺の記憶のなかでだけ、“その子”は生きる。でも、それを誰にも伝えられない」


 ひなたは理久のそばに膝をつき、黙って彼の目を見た。


「……それが、あなたのやり方なの?」


「お前はわかってるだろ。言葉にできないものだけが、時には世界を守るんだ」

 

 その夜、封じの儀が始まった。


 帳場の奥、誰も使われていなかった座敷に、理久とひなた、そして羽木あやの三人が集まる。床の間には三方に白紙が載り、その中央に理久が記した折り紙の小箱が置かれた。


 ひなたが手順を読み上げる。


「“この名、我にあらず。記し、語らず、渡さず”。……“一人の記憶とともに、眠れ”」


 部屋の空気が一変した。


 風もないのに、畳の上を風が通り抜けたような感触が走る。次の瞬間、蝋燭がふっと消えた。


 「終わったの……?」


 理久はゆっくりと目を開けた。


 「わからない。だが、これ以上、“その名”が他人に渡ることはない」

 

 翌朝。


 羽木あやは、まるで夢から覚めたかのように起き上がった。


「……あれ? 私……」


「大丈夫。もう“その子”はここにいない」


 ひなたが静かに微笑む。

 だが、そのときだった。あやの表情が曇る。


「ごめん……名前、思い出せないや。昨日、誰の話をしてたっけ……?」


 ひなたは応えようとしたが、口が開かなかった。


 彼女自身も──“その名前”を、もう、思い出せなかったのだ。


 ただひとり。

 理久だけが、記憶の奥底に“その名”を沈めたまま、何も語らず、立ち尽くしていた。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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