第76話 記憶の封じ方
静寂の中で、扉の外から聞こえたのは、間違いなく“あの声”だった。
──「ねえ、わたしの名前……まだ、覚えてる?」
その声には、怨念のようなものはなかった。むしろ、哀願に近い響きだった。
だが、理久の表情は一瞬で険しくなった。
「その声に応えるな。絶対に、名前を口にするな」
ひなたとあやは、互いに目を合わせて頷いた。
理久は手早く、懐から小さなノートとペンを取り出し、床に広げる。
「いいか、話すかわりに、書け。だが、“その名”だけは書くな。会話を文章に変換することで、言語の媒介性を制限する。音声構文より、視覚構文のほうがまだ制御しやすい」
「理久、それって……この宿の“呪い”の正体が……?」
「──“名前”だ。語られた名前は、ここに記録されて“存在”になる。逆に言えば、語られなければ存在しない。忘れ去られる。だから、この宿は記録でできてる」
理久の声は、どこか冷静さと焦燥をないまぜにしていた。
「“ミヤハラ”って名字、帳場に記録があった。過去に何人も、“名を語られて記録された人間”がいる。おそらく、その記憶が再起動することで、次の犠牲者が出る」
ひなたは思い出す──昨夜、羽木あやが言った“夢の中の子”。
あれは、語られたことで“ここに戻ってきた”のだ。
突然、障子がぱたりと音を立てた。誰かが“立ち去った”。
だが、油断できなかった。次はあや自身が、名を呼ばれかねない。
翌朝。宿の庭で、理久は再び記録簿を開いていた。
「ほら、これを見ろ」
指差したのは、昭和初期の宿帳──だが、そのページには“墨で塗りつぶされた名”が残っていた。
「……上書きされてる?」
「否、記録を“断ち切った”痕跡だ。名前を言われた存在は、帳簿に記録される。けれど、逆に“その名を封じる”ことで、呪いの媒体が切れる」
「つまり、封じるには……?」
「“名前の記録を上書き”するんだ。“存在の記録”を、“忘却の記録”で塗りつぶす。記憶に残すかわりに、思い出させないことを選択する」
その日の夜。
あやはひなたと理久を部屋に招き、静かに語り始めた。
「わたし、小学生の頃、一度この宿に来たことがあるの。家族で泊まって、でもその時──“あの子”と遊んだの、思い出した」
「……“あの子”って……?」
「名前は、覚えてない。……でも、覚えてるの。“名前を言わないで”って、何度も言われた。だから、その時は言わなかった。……けど、大人になって、昨日──」
「語ったから、蘇ったんだな」
あやは、静かに涙をこぼす。
「もう、助けてあげられないかな……? あの子、ずっと“名前で呼ばれること”を待ってた」
理久は、視線を閉じ、ひとつ息を吐いた。
「──一つだけ、方法がある」
ひなたがはっと顔を上げる。
「記録の外に、“その名”を置く。だが、その代償として、誰かが“語らずに記憶を持つ”役を担わなければならない。つまり……忘れないけど、言えない」
「……そんなの」
「危険だ。名前が形になる前に、精神に侵食されるかもしれない。けど、記憶に留めて“語らずにいる”ことで、あの子の存在を“世界の外”に戻せるかもしれない」
「じゃあ、わたしが──」
「やめろ、ひなた」
理久の声は鋭かった。だが、その目には明らかな揺らぎがあった。
「……俺が、やる」
ひなたが絶句する。
「でも、それって……忘れられるってことじゃ……」
「いいさ。語れなければ、呪いは回らない。俺だけが、あの子の名前を……“語らずに覚えておく”。それで、終わりにする」
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