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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第76話 記憶の封じ方

 静寂の中で、扉の外から聞こえたのは、間違いなく“あの声”だった。


──「ねえ、わたしの名前……まだ、覚えてる?」


 その声には、怨念のようなものはなかった。むしろ、哀願に近い響きだった。

 だが、理久の表情は一瞬で険しくなった。


「その声に応えるな。絶対に、名前を口にするな」


 ひなたとあやは、互いに目を合わせて頷いた。


 理久は手早く、懐から小さなノートとペンを取り出し、床に広げる。


「いいか、話すかわりに、書け。だが、“その名”だけは書くな。会話を文章に変換することで、言語の媒介性を制限する。音声構文より、視覚構文のほうがまだ制御しやすい」


「理久、それって……この宿の“呪い”の正体が……?」


「──“名前”だ。語られた名前は、ここに記録されて“存在”になる。逆に言えば、語られなければ存在しない。忘れ去られる。だから、この宿は記録でできてる」


 理久の声は、どこか冷静さと焦燥をないまぜにしていた。


「“ミヤハラ”って名字、帳場に記録があった。過去に何人も、“名を語られて記録された人間”がいる。おそらく、その記憶が再起動することで、次の犠牲者が出る」


 ひなたは思い出す──昨夜、羽木あやが言った“夢の中の子”。

 あれは、語られたことで“ここに戻ってきた”のだ。

 

 突然、障子がぱたりと音を立てた。誰かが“立ち去った”。


 だが、油断できなかった。次はあや自身が、名を呼ばれかねない。

 

 翌朝。宿の庭で、理久は再び記録簿を開いていた。


「ほら、これを見ろ」


 指差したのは、昭和初期の宿帳──だが、そのページには“墨で塗りつぶされた名”が残っていた。


「……上書きされてる?」


「否、記録を“断ち切った”痕跡だ。名前を言われた存在は、帳簿に記録される。けれど、逆に“その名を封じる”ことで、呪いの媒体が切れる」


「つまり、封じるには……?」


「“名前の記録を上書き”するんだ。“存在の記録”を、“忘却の記録”で塗りつぶす。記憶に残すかわりに、思い出させないことを選択する」

 

 その日の夜。


 あやはひなたと理久を部屋に招き、静かに語り始めた。


 「わたし、小学生の頃、一度この宿に来たことがあるの。家族で泊まって、でもその時──“あの子”と遊んだの、思い出した」


「……“あの子”って……?」


「名前は、覚えてない。……でも、覚えてるの。“名前を言わないで”って、何度も言われた。だから、その時は言わなかった。……けど、大人になって、昨日──」


「語ったから、蘇ったんだな」


 あやは、静かに涙をこぼす。


「もう、助けてあげられないかな……? あの子、ずっと“名前で呼ばれること”を待ってた」


 理久は、視線を閉じ、ひとつ息を吐いた。


「──一つだけ、方法がある」


 ひなたがはっと顔を上げる。


「記録の外に、“その名”を置く。だが、その代償として、誰かが“語らずに記憶を持つ”役を担わなければならない。つまり……忘れないけど、言えない」


「……そんなの」


「危険だ。名前が形になる前に、精神に侵食されるかもしれない。けど、記憶に留めて“語らずにいる”ことで、あの子の存在を“世界の外”に戻せるかもしれない」


「じゃあ、わたしが──」


「やめろ、ひなた」


 理久の声は鋭かった。だが、その目には明らかな揺らぎがあった。


「……俺が、やる」


 ひなたが絶句する。


「でも、それって……忘れられるってことじゃ……」


「いいさ。語れなければ、呪いは回らない。俺だけが、あの子の名前を……“語らずに覚えておく”。それで、終わりにする」


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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