第75話 話してはいけない名前
夜。提灯の灯りが薄暗い廊下を照らす中、ひなたは羽木あやの部屋を訪れた。
部屋の扉をノックすると、中から「どうぞ」という声が返る。
開けると、畳の上に正座したあやが、薄手の毛布を肩に羽織っていた。
窓は閉じられていたが、障子越しに外の月が霞のように滲んでいる。部屋の空気は妙に重く、ひなたは思わず呼吸を浅くした。
「ありがとう、来てくれて」
「……あやちゃん、本当に大丈夫?」
「たぶん、今夜が境目。わたし、“名前”を言っちゃったの……」
ひなたは静かに息を呑んだ。
「それって……“その人”の?」
あやはうなずく。
「最初は、ただの昔話だった。“昔、この宿で消えた子がいる”って。でもね、その子の名前を口にした瞬間──わたし、毎晩夢に見るようになったの」
「どんな夢?」
「その子が……“まだいる”って言うの。“階段の裏に閉じ込められてる”って。話してくれる人がいないから、ここにいるしかないって」
言葉を重ねるごとに、あやの顔色が蒼白になっていく。
「……わたしも、その子みたいになるのかな」
「そんなの、させない」
ひなたが即答する。
「理久がいる。理久なら、ちゃんとこの宿の謎を解いて、あやちゃんも助けてくれる」
あやは一瞬だけ笑ったが、その表情はどこか遠くを見ていた。
その頃、別室にいた理久は、帳場の奥にある帳簿類を整理していた。
「これは……」
古びた木製の棚。その最下段、封じられた和綴じの記録簿があった。
日付は大正末期、数ページは虫食いで崩れていたが、“帳場日報”という文字だけははっきりと読める。
──“三月十七日、八ツ刻。ミヤハラノ子、不在。宿帳より削除済。”
理久は眉をひそめる。宿帳から“削除”された記録、しかも名前が載っていない。
これは意図的な“抹消”だ。しかも、誰かの命令で行われたような形式をしている。
ページをめくるたびに、複数の“削除”がなされていることが分かる。共通しているのは、いずれも「一人で働いていた若い女中」「夜中に失踪」「宿帳から名前が消える」こと。
「……これは、“語られる”ことを起点に、宿の中に存在が閉じ込められる構造か」
理久は即座に思考を組み立て直す。
“語られた名”=“宿に縛られる鍵”
“語られた事実”=“封印を解く起動スイッチ”
──逆に言えば、語らなければ存在は“保持”されない。
だが、語った瞬間、その人は“この宿に記録される”。
ひなたとあやがその話を交わしている最中に、すでに“起動”している可能性がある。
その時──。
羽木あやの部屋の障子が、バサッ、と風もないのに揺れた。
あやが振り向き、硬直する。
「いる……部屋の外に、いる」
「なにが……?」
「“あの子”。わたしが名前を言ったから、ここに来ちゃった」
障子の向こう、畳に落ちる影が──一瞬、高さのない“人型”に変わる。
まるで、子どもが這うように歩いているかのような、奇妙な移動。
その時。
「あや!」
理久が飛び込んできた。
「今すぐ、あやの名前を“言うな”。誰にも、これからも絶対に」
ひなたは息を呑んだ。
「え、それって……」
「語られた名前が“宿の記録”に変わる。このままだと、あやは“ここに閉じ込められた存在”になる」
「でも……もう遅いんじゃ……」
「否、まだ“全てを語ってはいない”。完全な記録にされる前なら、戻せる可能性がある。封じられてきた“記憶”の断片を逆順に辿れば」
その時だった。
障子の隙間から、小さな声が漏れた。
──「……ねえ、わたしの名前……まだ、覚えてる?」
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