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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第74話 階段の裏には

 翌朝──。


 ひなたは、うなされたような眠りから目覚めると、微かに背中に汗を感じた。部屋の空気はやけに湿っていて、襖の縁がぺたぺたと指に吸い付く。


 ふと隣を見ると、理久はもう起きて着替えていた。顔を洗い終えた直後らしく、前髪が水を含んで重たげに垂れている。


「おはよ……理久、昨日のあれ、やっぱり変だったよね」


 理久はタオルを肩にかけたまま、ひなたに目を向ける。


「……“何もなかった”ことになってるな」


「え?」


「夜、カリカリって音しただろ。今、羽木に聞いたが、“昨日は何も変なことなかった”って言ってた。おまけに──『昨日、そんな話してません』ってさ」


「……え、まって、それって──」


「記録が書き換えられてる可能性がある。“語る”ことを通して、記憶と現実がリンクしてる。構造が感染型だとしたら……」


 理久がそこまで言いかけた時だった。


 廊下の奥、階段の裏手にあたる方向で、ぱた、と何かが落ちたような音が響いた。


 ひなたと理久は同時に動く。


 静まり返る館内。廊下の奥にあるその“階段の裏側”には、小さな扉があった。観音開きで、倉庫か収納スペースのような造り。だが、鍵がかかっていない。


 理久がそっと手をかけ、開けようとしたその時──


「そこ、開けちゃダメ」


 声をかけたのは、老女将・霧島トメだった。


 その手には湯かごを提げていたが、その目だけが異様に鋭く、まるで“あらかじめそこに現れると分かっていた”かのようだった。


「……そこには、何があるんですか?」


 理久が問う。


 だが女将は、わずかに首を振った。


「語ってしまえば、またひとつ“残されてしまう”。この宿は……忘れないと、続かない場所なのよ」


「“残される”って、何がですか?」


「人よ。“話された人”が、ここに残るの。だから、名前も、関係も、ぜんぶ話さずに帰るのが一番」


 ひなたは息を呑んだ。

 まるでそれは、“誰かの存在そのもの”を抹消しようとするための作法のようだった。

 

 その日の午後──。


 昼の準備を終えたあと、羽木あやがひなたの元へ近づいてきた。


「昨日のこと……まだ覚えてる?」


「うん。夢じゃないと思ってる」


「なら──お願い。今夜、わたしの部屋に来て」


 ひなたは眉をひそめた。あやの目は、どこか虚ろだった。


「わたし、もう少しで“あの人”に呼ばれそうなの。まだ話してないことがある」



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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