第74話 階段の裏には
翌朝──。
ひなたは、うなされたような眠りから目覚めると、微かに背中に汗を感じた。部屋の空気はやけに湿っていて、襖の縁がぺたぺたと指に吸い付く。
ふと隣を見ると、理久はもう起きて着替えていた。顔を洗い終えた直後らしく、前髪が水を含んで重たげに垂れている。
「おはよ……理久、昨日のあれ、やっぱり変だったよね」
理久はタオルを肩にかけたまま、ひなたに目を向ける。
「……“何もなかった”ことになってるな」
「え?」
「夜、カリカリって音しただろ。今、羽木に聞いたが、“昨日は何も変なことなかった”って言ってた。おまけに──『昨日、そんな話してません』ってさ」
「……え、まって、それって──」
「記録が書き換えられてる可能性がある。“語る”ことを通して、記憶と現実がリンクしてる。構造が感染型だとしたら……」
理久がそこまで言いかけた時だった。
廊下の奥、階段の裏手にあたる方向で、ぱた、と何かが落ちたような音が響いた。
ひなたと理久は同時に動く。
静まり返る館内。廊下の奥にあるその“階段の裏側”には、小さな扉があった。観音開きで、倉庫か収納スペースのような造り。だが、鍵がかかっていない。
理久がそっと手をかけ、開けようとしたその時──
「そこ、開けちゃダメ」
声をかけたのは、老女将・霧島トメだった。
その手には湯かごを提げていたが、その目だけが異様に鋭く、まるで“あらかじめそこに現れると分かっていた”かのようだった。
「……そこには、何があるんですか?」
理久が問う。
だが女将は、わずかに首を振った。
「語ってしまえば、またひとつ“残されてしまう”。この宿は……忘れないと、続かない場所なのよ」
「“残される”って、何がですか?」
「人よ。“話された人”が、ここに残るの。だから、名前も、関係も、ぜんぶ話さずに帰るのが一番」
ひなたは息を呑んだ。
まるでそれは、“誰かの存在そのもの”を抹消しようとするための作法のようだった。
その日の午後──。
昼の準備を終えたあと、羽木あやがひなたの元へ近づいてきた。
「昨日のこと……まだ覚えてる?」
「うん。夢じゃないと思ってる」
「なら──お願い。今夜、わたしの部屋に来て」
ひなたは眉をひそめた。あやの目は、どこか虚ろだった。
「わたし、もう少しで“あの人”に呼ばれそうなの。まだ話してないことがある」
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